ロックンロールで一夜漬け

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ロックンロールで一夜漬け

音楽に踏み込む探検日記。毎週月曜更新

忌野清志郎のギター展に行ってきた

 

こんばんは。

この5月中旬くらいの気候が僕は好きです。

 

先日、渋谷で開催されている忌野清志郎のギター展に行ってきました。

正式には「ロッ研ギターショー at Amrita Custom Guitars」ということで、先日発売された忌野清志郎の愛蔵楽器写真集に連動して開催された展示会になります。写真集に掲載された忌野清志郎の使用ギター達を実際に目のあたりにすることができる機会というわけですね。

場所は渋谷のアムリタカスタムギターという楽器屋で、ここは生前忌野清志郎のギターの管理をされていた方が経営している個人のギターショップなのだそうです。オリジナルのギター販売も行っており、このところ仲井戸麗市もといCHABOさんが愛用しているバタースコッチのテレキャスターもこのアムリタ製のようです。

この動画で持ってるテレですね。いい音。

(余談ですが、貼ってるキスマークのステッカーはクロマニヨンズの「キスまでいける」のジャケットのステッカーですね。後輩バンドのステッカー貼るなんて素敵です。)

以前ライブで観たときこのテレキャス一本で弾き語りをする姿が非常に格好良く、後で調べて「CHABOが使ってたギター作ってる、このアムリタってどこのメーカーだろう?なんでフェンダーじゃないの?」と思っていたのですが、清志郎つながりだったならば納得です。

 

話が逸れてしまいましたが、ともかくギター展行って来ました。

お店は大通りから一本奥に入った裏通りにありました。ギターショップというよりは喫茶店かセレクトショップのような佇まいです。お洒落。

一階と二階があって、一階の方の小物の展示は撮影OKでした。

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こんな感じでギターケースが一杯です。ギブソンフェンダーはもちろんとして、カジノやリッケンバッカーといったビートルズを思わせるギターもちらほらありますね。

 ジャズマスターとかもあって、そんなのも使ってたんだなー…と意外でした。

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ギターケースの脇には写真が数枚と、タイマーズのサングラス?と、テレキャスのピックガードが飾られていました。ピックガードはフロントのザグリがP-90サイズなのを見るに、広告にもあった赤いテレキャス(厳密にはエスクワイア)のものでしょうか。テレキャスで赤ピックガードというとウィルコジョンソンで、なんらかリスペクトがあったのかあと…。ウィルコと清志郎て同世代くらいですかね?

二階に上がってみると、清志郎の使用ギターがズラリと並んでいて壮観でした。残念ながらここは撮影禁止ということで、心のフィルムに焼き付ける感じでした。

もちろん今回の展示は写真集で見られるものではありますが、実物はやはり独特の雰囲気がありますね…。付喪神なんて言葉もあり、ひとが使い込んだものには何かが宿るというのも信じたくなります。

肝心のどんな楽器を見たかというところですが、覚えている範囲で

Fender Esquire (ナチュラル?)

Fender Telecaster バタースコッチ

•Les Paul 1960 ゴールドトップ

Fender Jazzmaster オレンジ色?

• Rickenbacker ファイアグロー

Gibson Flying V 

•改造Flying V(V部分切断?)

•Guild bluesbird

•テスコ、グヤトー

•casioのギターシンセ

Gibson アコースティックギター多数

マンドリン

•法螺貝

 などなど…。あとセミアコもいくつかあったかな、意外と覚えてない自分が憎いです。

 

やっぱり目を引くのはゴールドトップのレスポールエスクワイアですね。レスポールは1960年かそのあたりで、いわゆるヴィンテージですね。ただでさえ非常に高額がつけられる年代のもので、まして清志郎の所有物ともなると最早プライスレスの域でしょう。ブリッジがバダスに換装されている以外はハッキリとした改造の跡はなく、金色の塗装が剥げ、緑青がついていて、ボリュームノブも型が古いものがそのまま付いていて、なかなか歴戦の風格があります。

エスクワイアの方も相当年季が入っていて、元々の色が焼けてもはや木目そのままのナチュラルに近い色合いです。エスクワイアはフロントピックアップが無いギターですので、P-90を後からわざわざ取り付けた格好になります。そういえばジョンレノンも同じく、フロントピックアップのないレスポールジュニアに改造をしていましたね。

テレキャスエスクワイアって元々良くも悪くも木の板そのままっぽいデザインなので、年季が入ると尚更古い板切れっぽくも見えます。それがまた渋くて良い感じです。

他に目を引いたものとして、オレンジ色のジャズマスターは珍しいなと思いました。店長さんによると、清志郎がちょうどそのオレンジ色が好きだった頃に手に入れたということで、どうも色で選んだ一本のようでした。

たしかに清志郎って黄色とかオレンジ色とか派手な色のイメージありますね。

また、おそらく高額なヴィンテージギターが並ぶ一方で、テスコなどの比較的安価なギターもあるのが印象的でした。安価なグレードの中でもえてして良い音がするものはあるので、たぶん安い中でも選び抜かれたものだとは思われますが、なんだかちょっと親近感です。中にはcasio(電卓とか作ってる会社のcasioです、最初casinoかと思って三度見しました)のギターシンセなんかもあったりして驚きです。

ギルドのbluesbirdというギターは、店長さんが手にとってその場にいた人達に見せてくれました。このギターの裏には清志郎の子供の写真が貼ってあって、折に触れてステージから観客に見せびらかしていたそうです。でも小さい写真なので、見せられてる方は何だかわからなかったとのことです…。そんなほっこりな逸話を聞いたら「でもそれステージでぶん投げてましたよね、そんでメンバーが慌ててキャッチしたり。」という話がその場にいたお客さんから出てきたりして、面白かったです。

店長さんは清志郎と直の知り合いで、展示に来ていた方もライブに何度も行った人達が多かったようで、ちらほらそんな思い出話を聞くことができました。

他にもV字が叩き折られたフライングV(のようなもの)や、年代物の四弦アコギ、マンドリン、果てはほら貝などユニークな楽器がたくさんありました。

やはり全体的に一風変わった機材が多く、ほんとに愛やこだわりを持って楽器を集めていた人だったんだろうな〜ということが伝わってくる展示でした。

行ってよかった、非常に面白かったです。

 

そして…あの、展示の横にひっそり並んでいたアムリタのオリジナルギターがすごい良さそうでした。

いつか小金ができたら、弾きに行ってみようかな…。チャボと同じギター…。

 

 

ポールマッカートニーを観た

 

 

こんばんは。

GWはリス園でうさぎと戯れていました。

 

今更になってしまいましたが…。

ポールマッカートニー、4月30日の東京ドーム公演に行ってきました。今回はその感想です

いや、もう、凄かったです。

まずセトリは、

01. A Hard Day’s Night
02. Junior’s Farm
03. Can’t Buy Me Love
04. Jet
05. Temporary Secretary
06. Let Me Roll It
07. I’ve Got a Feeling
08. My Valentine
09. 1985
10. Maybe I’m Amazed
11. We Can Work It Out
12. In Spite of All the Danger
13. You Won’t See Me
14. Love Me Do
15. And I Love Her
16. Blackbird
17. Here Today
18. Queenie Eye
19. New
20. The Fool on the Hill
21. Lady Madonna
22. FourFiveSeconds
23. Eleanor Rigby
24. I Wanna Be Your Man
25. Being for the Benefit of Mr. Kite!
26. Something
27. Ob-La-Di, Ob-La-Da
28. Band on the Run
29. Back In The U.S.S.R.
30. Let It Be
31. Live And Let Die
32. Hey Jude
encore
33. Yesterday
34. Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band (Reprise)
35. Get Back
36. Hi, Hi, Hi
37. Golden Slumbers
38. Carry That Weight
39. The End

 

以上の通りです(http://nme-jp.com/news/37437/より引用させていただきました)。

 

いや、39曲て。

これだけの曲数を、ほとんど休憩なしで演奏しきるだけでも凄まじいことです。ポールマッカートニー今年で75歳ですが、全く年齢を感じさせないですね。

良かったところはどこかっていったら全部なのですが、もう最初の A Hard Day’s Nightの不思議な一音目から、「やべえビートルズの人来た!目の前にいる!」って感じで鳥肌でした。

Can’t Buy Me Love、We Can Work It Out、Love Me Doあたりのビートルズ時代の曲では特に、これは現実かと疑うくらいで夢見心地でした。

しかし、パフォーマンスが数十年前のCDやレコードと比べても聴く限り全く落ちてないのが驚きです。なんだか80〜90年代くらいのライブ映像からそのまま抜け出してきたような、まさにバリバリ現役のポールマッカートニーそのものという印象です。。

本人も「Sgt. Pepper’sから50年なんて信じられない!俺はまだ52歳だよ!」なんて言ってましたので、ポール自身の感覚としてもそんな感じなのかもしれません。

 

 さて演奏に関して、まず楽器についてですが、お馴染みのヘフナーベースやギブソンレスポール(サンバーストとサイケ柄の二種が登場しました)、アコースティックギター、ピアノそしてマンドリンと曲ごとにとっかえひっかえ演奏されていました。個人的にはレスポールをギターボーカルで使っているのがツボです。なんとなくスタンダードのレスポールは歌いながら弾くには向かないという通説ですが、ポールがやってるなら間違いないです。

そして何より、歌がやっぱりすごい強いですね。メロディ重視の繊細な歌い方から激しいシャウトまで非常に幅広く、それぞれが曲に非常によくハマっているのは流石としかいいようがないです。

ビートルズが成功した理由は様々だと思いますが、何だかんだいっても歌が上手かったからというのがかなり大きいんじゃないかと思います。上手いといいますか、激しさも優しさもスッと人の心に届けられるような、そんな不思議な力がありますね。

 また、年齢を感じさせないパフォーマンスとはいえ、所々で年月の経過を感じさせる場面もありました。この曲は奥さんのために作った曲です、この曲はジョンが亡くなった時の曲です、この曲はジョージの曲で、マンドリンを持ってジョージの家で弾いたりしましたよ、というような次第ですね。なんだかショー全体で1人のひとの人生を垣間見ているようで、感慨深かったです。

また当時非常に険悪な雰囲気の中で製作されたというOb-La-Di, Ob-La-Daが普通にみんなで楽しく歌う曲として演奏されていたりもして、これは今この時代だからこそ観られるショーなんだろうなと思いました。

 

 ビートルズ時代の曲ばかり挙げてきましたが、Bund On The RunやJetなどのウイングス以降の曲もやはり良かったです。予習した甲斐がありました。また、Newなど最近の曲もちゃんと演奏されていたのもポイントです。おそらく一番新しかったのはFourFiveSecondsで、この曲はバックに歌詞が表示されてとっつきやすいようになっていました。おそらく昔の曲を聴きたくて来ているファンが多い中で、その期待に応えつつも、一方では新しい曲を聴かせる配慮もなされているというわけですね。

 前回も触れましたが、やはり凄いアーティストは過去に大きなヒットがあっても懐古主義的にはならず、時代時代で新しいことを求めるものなんだなと改めて思いました。

とはいえ、やはり最後はLet It Be、Hey Jude、YesterdayそしてGolden Slumbers~Carry That Weight~The Endのメドレーと定番の流れで、これはもう圧巻でした。

ここに関してはもう書きようがないです。

こんな体験ないですよ。

 

はい。

 

改めて振り返っても演奏もセトリも最高だったし、ポールマッカートニー本人も2時間以上のショーでずっと上機嫌ふうで、あったかい人だったなーと思います。

年齢的にもこれで最後だろうなと思って今回行きましたが、またくるよーって言ってくれてて、なんだかそれも信じたくなるようなショーでした。

来てくれるといいな。

 

ポールマッカートニーが来る

 

こんばんは。

こう暖かいと、頭ゆるゆるになってきますね。

 

いよいよ今週に迫ってきました。

何がって、ポールマッカートニーの来日公演です。後から発表された武道館公演も含めて全4回の日程です。僕は土曜の東京ドームに行ってきます。S席を取りました。やったぜ。

 

僕なんかは生まれた時にはとっくにジョンレノンはこの世の人でなく、また物心つく前にジョージハリスンも他界してしまったというくらいの後追い世代なので、ビートルズのメンバーの姿が生で見られるという、それだけでも奇跡のように思えます。

今回は元気でやりきってくれることを願うのみです。今年で御歳75歳ですよね…。

さて、この来日公演、ビートルズ以外の曲も多く演奏されることが予想されます。

考えてみれば当然で、ビートルズのキャリアは濃密とはいえたったの10年であって、長さで言えばその後のウイングス及びソロ期間の方がずっと長いわけですからね。

正直コンサート行けるだけでも奇跡だと思っているので、Let It BeとHey Judeが聴ければ満足、あとはHard Day's NightやAll My Lovingでも聴ければ最高というのが本音ではあります。ですが折角なので、ソロ期間の曲も押さえて少しでも知ってる曲を増やしていきたいところです。

ということで先月あたりから少しずつ、ソロやウィングス時代の曲を漁っている次第です。

今回は、その中で聴いてみたいくつかに触れてみたいと思います。

よろしくお願いします。

 

•Band On The Run

ウィングスのアルバムの表題曲にもなっている曲です。このアルバム非常に評価が高いそうで、歌詞考察や講評がたくさん出てきます。

ジャケットもカッコいい。監獄ロックかな。

曲は三部構成で、全然違う曲調を三つ続ける形式になっています。ビートルズ時代のA Day In The Lifeや、Golden Slumber~Carry ThatWeight~The Endにも見られる手法です。

シンセの音が印象的なバラードから突然ロック調になり、そこからアコギが響く爽やかなコーラスが続く形です。最初は不思議でしたが、囚人達が脱獄し逃げ出す過程を追った歌詞も踏まえるとドラマチックな構成ですね。

俺たちのバンドは逃げるぜ!って、逃げるというワードは普通はなんだか格好悪いものなのに、ロックスターが歌うと格好いいというのも不思議です。

忌野清志郎のベイビー!逃げるんだ。とかもそうですね。全然違う曲ですが。

 

•My Brave Face

 

はい。こちらはFlower In The Dirtというアルバムからの一曲目です。このアルバムはスランプと試行錯誤が数作続いてからの原点回帰という立ち位置で作られたものだそうで、たしかにビートルズから聴いても違和感のない曲が多い印象です。エルヴィス・コステロとの共作で、先日リマスターが出たばかりでもあります。

レコードコレクターで特集されていました。

Drive My CarやTaxmanのようなモータウン風のベースラインに、そしてやっぱりメロディがすごく良いですね。ビートルズの頃からポール曲はメロディがめっちゃ親しみやすいイメージがあります。 また、アコギ2本で撮られているデモ音源の方を聴くと、ああこれはやっぱりビートルズ時代に寄せて作られた曲なんだなあという感じがします。

またこのアルバムは89年のリリースということで、曲によってはシンセベースや打ち込みが取り入れられていたりと時代を感じる部分もあり、その辺からいっても面白いです。

 

•New

 

歌詞の入れ方がカッコいい…。

これは2013年リリースで、名前の通り新しい方の曲ですね。

かなり若手のプロデューサーを起用しての意欲作ということで、70代にさしかかってもエネルギーに溢れているのは流石です。

 考えてみるとボブディランもデヴィッドボウイも若手と難しそうなアルバムを作っていたなあと思うので、ほんとうに凄い人は新しい感性を持ち続けているものなのかもしれないなとも思います。

曲の方は、まず何よりメロディがすごく良いですね。わぁ、ビートルズの人の新曲だ〜〜って感じです。

でも拍の感覚が所々不思議だったり、イントロから入るシンセの音程が絶妙だったり、「そこでそう来るか⁉︎」と思うような所があって、やはりただの良メロディの曲に終始しないあたり流石です。

また、歌詞にも年を重ねたからこその深みがありますね。自分に何ができるのか知らずにきた、だから新しくなれたんだ、と74歳のポールマッカートニーが言うのはズルいです。

 

はい。

聴いているとどうしてもビートルズと比べてしまうし、またビートルズらしさを期待してしまう事もあり、なかなか難しいところです。

調べてみて思いましたが、ポールマッカートニーって長いキャリアの中で低迷期もあれば、流行りを取り入れようとしてセールス失敗した時期もあったり、かなり試行錯誤を重ねているんですね。ずっと最先端で高く評価され続けているわけでは必ずしもないというのが、僕にとっては発見でした。(70代で海外ツアーをやってるのは超人としか言いようがないですが…。)

しかし、だからこそ未だに新しい試みを続けてライブもやり続けているということが一層カッコいいのではないでしょうか。

 

楽しみです。土曜早く来い。

 

ドレスコーズmemeツアーファイナルに行ってきた

 

 

おはようございます。

新学期ですね、週末で散るといわれていた桜が意外とまだ元気です。

 

昨日、新木場スタジオコーストドレスコーズmemeツアーファイナルに行ってきました。

このあいだ出た最新アルバムの「平凡」を聴いてめっちゃ衝撃を受けまして、これはライブを観に行かなくてはと思い立った次第です。

アルバムはエゲツない程ファンキーな演奏で、なおかつ20世紀のカルチャーそのものと決別するかのような世界観がぶちこまれた、とんでもない作品でした。

それを引っさげてのこのライブだった訳ですが、これももう輪をかけて大変なものを観させられた印象です。

普段飽きもせずロックンロールのライブばっかり行ってる身からすると、正直「訳わかんないけどすごい、やべぇ」意外の言葉がないですね…。DVD出たら買います。これは本当にじっくり観ないと分からない。

とはいえ、折角ライブに触れた直後ですので、一回ここで改めて振り返ってみたいと思います。

 

まずセットリストですが、 

1.common式

2.平凡アンチ

3.マイノリティーの神様

4.towaie 

5.メロディ 

6.ストレンジャー

7.規律/訓練

8.Automatic Punk

9.ヒッピーズ

10.エゴサーチ&デストロイ

11.人間ビデオ

12.ゴッホ

13.アートvsデザイン

 

encore

1.人民ダンス

2.20世紀(さよならフリーダム)

 

 でした。過去曲もいくつか見られますが、ほとんどはアルバムの再現に徹している感じですね。今回かなり飛び抜けて異質なので、当然といえば当然かもしれませんが…。

またドレスコーズは、フロントマンの志磨遼平以外はライブの度に毎回メンバーが変わることで知られています。今回はというと、まずホーンが3人、パーカスが1人、そしてドラム、ベース、ギター、ボーカルという8人編成でした。

ホーンとパーカッションがいて、平凡のアルバム音源をほぼそのまま再現できる編成となっていましたね。

 怪しげなSEが流れてメンバーが登場すると、これもまた不穏なギターの音色から始まって、そのまま挨拶なしに一曲目のcommon式へ。ボーカルの志磨遼平は終演まで一貫して、グレーのスーツとシャツに眼鏡のいでたちでした。ジャケット写真の通りの格好ですが、実際に見ると尚更異質です。

動きはなんだか独特で、普段とはロックスター然とした振る舞いとはまた一味違う様子でした。手足を振り回す激しい動きは減って、かわりにパントマイムのように両手で壁を作るようなポーズなんかが多かったです。なんというかカクカクしていて、人形やロボットみたいな感じでした…。

演奏に関しては、まずcommon式、平凡アンチなどアルバムでも好きだった曲はますます磨きがかかってゴリッゴリになっていてめっちゃ良かったです。ファンクって元々はソウルをさらに泥臭くしたような黒人音楽で、本来はめっちゃ生々しいものであるはずですが、衣装や歌詞、パフォーマンスも相まって「熱く激しいのに虚無」というような、観たことないような何かになっていたように感じました。

他の曲に関して言えば、規律/訓練がずいぶんライブ化けしたなというのが印象的でした。あんなに大暴れする曲だったとは。ホイッスル吹きまくって号令みたいなポーズで叫ぶ志磨さんの横でギターを地面に叩きつける有島コレスケとやべえ絵面でした。そしてこの規律/訓練のあとに過去曲のAutomatic Punkをぶっこんでくる展開も難しくて最高です。この2曲ってわりと対極の主張のような気がするんですが…。

 ギターといえば、今回ギタリストは有島コレスケでした。普段ベーシストとしてよくドレスコーズに登場する方ですね。ギタリストとして観るのは初めてでしたが、テレキャスター1本でファンクらしい16分カッティングから、ぶっといリードギター、飛び道具的なディレイから穏やかなクリーントーンアルペジオまで、非常に多彩な音色を使い分け1人で何役も担っているような様子でした。マルチプレイヤーで多彩な音世界を持ったベーシストって格好いいっすね…。

ベースは山中治雄、ドレスコーズの初代ベーシストですね。残りの初期メンバー2人と違ってどうもここ最近は主だった出番がなかったようですが、ここで再び登場したことで喜んだファンも多かったのではないかと思います。名前を叫ぶ声も聞かれました。

アルバム音源の吉田一郎も本当に大概ですが、それに劣らないゴリッゴリのベースでした。

特にAutomatic Punkのおどろおどろしいベースラインとコーラスが良かったです。この曲ファーストアルバムの中で一番好きなので、聴けて嬉しかったです。

テレビなんかより戦争がしたい。

 

また全体の構成で印象的だったのが、激しい演奏とは裏腹に、ライブ自体は終始とても淡々と進んでいったということです。煽るようなMCや語りはなく、大道具のような派手な演出もなし。 ただ曲が演奏されていくだけという、それ自体も平凡の表現の一つなんだろうなと思います。演奏以外で異常性のアピールや個性の主張を一切せず、演奏中も今までのドレスコーズのように客席に飛び込んだり、煽ったりもしない。

そして何より最後の曲、20世紀(さよならフリーダム)、これがとても良かったです。ファンク色を残しつつもテンポは抑えられ、歌謡曲といった方がいいような古き良き空気を醸す穏やかなメロディの曲でした。ロックバンドのツアーファイナルとは到底思えないような静かな終わり方でした。

しかし最後のメンバー挨拶では本当に誰もが良い笑顔で多幸感に満ちていて、ああこのツアーでこの人達がやりたかったのはこういうものだったんだな、と改めて思いました。

「さよならデヴィッドボウイ!さよならチャックベリー!さよなら資本主義!さよなら20世紀!ありがとう!」と叫び、笑顔で穏やかに終わる。そんなライブは、20世紀のロックンロールやカルチャーに精通し、なおかつ21世紀を生きる人達だからこそできるものだと思います。

 実は今回、個人的に音源とライブで一番違いを感じたのが、このライブ後の穏やかで幸せな空気感です。もっと喪失感のある感じかと思いきや、全然そんなことなく、むしろ真逆の余韻があるものだったのです。

曲のテーマは個性の否定なのに、とても個々のメンバーの持ち味が光る演奏。20世紀との決別の歌のはずなのに、その時代への愛に溢れたメロディ。熱いのにどこか虚無で、悲しいのに穏やかで前向き。色々と相反する要素がぶつかり合っていて、不思議な気分になるライブでした。 

また他に面白いなーと思ったのがライブ前後に流れていたラジオ風のBGMで、聞いた限りでは「今ではとても聴くことのできない20世紀の曲をご紹介いたします。放送禁止かもしれませんね。」といったmcがありました。これは「近未来のファンクバンド」という今回の設定に乗っかった近未来のラジオ番組ということだったのかもなと思います。こうしたSEやロビーのポスターなど、細かな所にも芸が細かい仕掛けがあって面白かったです。

 

はい。

 

以前ここに書いたことにも絡みますが、ライブも含めてこの「平凡」は、これからどんどん20世紀の文化の担い手が亡くなっていくという未来に向き合ったうえで、その事に対する一つの答えになりうる姿勢を提示しているのではないかと思いました。 

それはおそらく特に20〜30代の物好きにとって今後めちゃめちゃ大事になってくるテーマで、だからこそこのタイミングでこの作品に出会えて良かったと思います。

とはいってもこのままずっとドレスコーズがファンクギャングでいるとも思えないので、次はどんな形で来るのか楽しみでもあります。

 

ともあれ、DVD待ちです。

GEZANの活動再開と新曲

 

ごぶさたしております。

 

1週間空いてしまいました。

年度の分かれ目は色々大変ですね…。

 

さりとて、現在活動中のバンドは刻一刻と状況が変わっている訳でして、

ヘルシンキラムダクラブからギターが抜けてしまったり、マヤーンズが5人編成になったり、インディーズは特に入れ替わりが激しいです。

そんな中で今回は、GEZANのドラムが新加入したことについて書いていきたいと思います。

 

GEZANについては以前、昨年の8月のドラムが抜ける最後のライブ前にここで取り上げさせていただきました。

サイケデリックで、ハードコアで、破滅的で、でもどこか子供のような無邪気なキラキラ感を持ったバンドだと思います。

僕はあんまり普段ハードコアによったタイプのは聴かないんですが、そのたまに垣間見えるキラキラが気になって、一昨年のロッケンローサミットで観て以来なんとなく動向を追っているという、僕にとってはそんなバンドです。

 

昨年の8月31日をもってドラムが脱退して、以来3人編成でライブしたりという状態が続いていたようなのですが、今年2月28日に新ドラムが正式に加入してのライブがあり、復活する運びになったようです。

ナンバーガールのようにメンバーが1人抜けて、それをきっかけに解散という事例も多いので、これはほんとに嬉しいことです。

で、その新編成でのライブでの曲がYouTubeに上がってまして、これがいい曲で。

 

終わらない歌が終わった、リンダリンダはもうきこえない、とブルーハーツの曲を取り上げた歌詞が印象的です。そして何より、2ndアルバムあたりまでのギンギンなサイケデリックと比べると、音が凄く爽やかに突き抜けたなと驚かされます。極端な話、全く違うバンドのようです。

ボーカルの子供のような不思議な歌声も、歌詞の世界観にあって良いです。曲に合わせてか、心なしか声の出音が真っ直ぐになってる感じで、歌上手い人だったんだなあと今更ながら思いました。

 

とはいえこの流れはドラム脱退前の頃から始まっていまして、旧メンバーの4人編成での最後のアルバムであるNEVER END ROLLというアルバム、これが本当に素晴らしいです。

結果的に先行シングルのような格好になった「言いたいだけのvoid」を始め、轟音はそのままにポップで爽快感のある曲が目白押しとなっています。それまでのGEZANのイメージカラーは血のような真っ赤だったようなのですが、このアルバムに関してはジャケット写真も含めて澄んだ真っ青といった印象です。

個人的には、以前から垣間見えていたキラキラ感がより前面に出てきたようで、こっちの方がずっと好みです。

新加入のドラムに関しては、ライブ行かないと分からないところもありますが、YouTubeで聴いた感じパンチがめちゃめちゃありますね。スネア一発の音だけでも主張がすごい。GEZANにはめっちゃ合ってるんじゃないかと思います。

今後はこのまま透き通ったような曲のパンクバンドになるのか、またグロテスクでサイケな方向に行くのか、どちらにしても今後が楽しみです。

 

ロックンロールと21世紀

こんばんは。

 

チャックベリーが亡くなりましたね…。

御歳90歳ということで大往生ではありますが、それでもやっぱり寂しいです。

バディホリーやエディコクランなど、同世代に活躍したロックミュージシャンの多くが若くして世を去っている中、チャックベリーのように長生きして沢山の作品を遺してくれたのはとても偉大なことのように思います。

 

ご冥福をお祈り致します。

 

しかし、この訃報もあって尚更、ここ最近は改めて先週のテーマについてばかり考えてしまいます。

つまり

「ロックンロールはここ数年でいよいよ本当に時代遅れになったんじゃないか?現代の人々の悩みを何も反映しない音楽になったんじゃないか?」

ということです。

古臭いって言われてもロックンロールが好きだぜ〜と言うことができたのは過去の話で、これからの時代に人々が直面する問題に対しては、ロックンロールは何の解決にも気休めにもならないどころか、問題を捉えることさえできないのではないか?ということです。

個性が嫌われる(権力者に個性が抑えつけられるということではなく、一人一人が個性というものに疲れてうんざりしてしまう)時代において、個性を主張する音楽であるロックンロールって何にもならないんじゃないか・・・、と。

チャックベリーもビートルズストーンズも、もっと言えばピストルズ清志郎ブルーハーツも、見方によっては20世紀の「個性を認めろ、マイノリティを認めろ」という主張に倣うという意味で、同じ流れの上に置くことができると思います。それは人と違うものが好きな自分たちでも楽しくやってやるぜー、という主張でもあると思います。

でもその流れがあった時代と現代には線が引かれてしまっている。あるいは、そこに線を引こうとしているのがドレスコーズの「平凡」なのだと思います。あのアルバムは、向こうとこっちは別の時代ですよ、こっちから向こうには渡れませんよ、と言っているように感じられます。

それの何が問題かって、要するに今の若者はいくら憧れてもチャックベリーにはなれないんじゃないかってことです。清志郎にもなれないし、ブルーハーツにもなれない。

なぜかって、抱えている問題の性質が違うから。悩みが違う。ただ時代が違うというだけじゃなくて、根本的に抱える鬱屈の種類が違う。 スリーコードでリズムを刻むことはできても、それは形をなぞっただけであって、そこに込めるものが違ってくる。

当時からずっとロックを続けている人はいいと思うのです。実際、今の40〜50代の人達が若かった80年代は、自らの個性をロックで叫ぶという事に意味のある時代だったはずで、その中を生きてきた人達だから。

その感覚を持っているから、その続きとして同じ感覚でロックンロールをやることができるんじゃないかと思います。

 

しかし現代、特に物心ついた時にはネットが普及していた10〜20代は、根本的に抱える悩みが違うように思います。だから本来ロックンロールに込めるべきものがない。それは悪いこととかじゃなくて、時代と共に人々が抱えるテーマが違うという話です。

 

規範に従うだけでは、褒められるどころかつまらない人間だと思われる。

何か人と違う所がないと恥ずかしい、自分だけの何かがないと居心地が悪い。

スマホを見れば無数の人々の無数の表現が溢れていて、いちいちまともに受け取っていたら疲れてしまう。逆に何かを発信しようとしても、ネットを通して人目につかせること自体は簡単でも、注目を引き続けるには延々と何かを発信を続けなくてはならない。

 

個性を受け入れるのも、主張するのも、しんどい。

 

そんな悩みはチャックベリーの時代にも、ビートルズの時代にも、清志郎の時代にもブルーハーツの時代にもなかったのではないでしょうか。

その大きな悩みを脇に置いて、ロックンロールをやってもダメなんじゃないか、と。

こういった次第なのです。

 

じゃあ、これからの時代にロックンロールが好きな人はどうしていったらいいのか。

そこを考えないといけません。

 

①違うことをやる

これはもっともな話で、ロックンロールが担ってきた役割が違うものに移ったのだとしたら、違うことをやればいいということです。それはラップかもしれないし、EDMかもしれない。また、ここでファンクを選択したのが今のドレスコーズなんじゃないかとも思います。

でもロックンロールが好きなのに違うことをやらなきゃいけないというのは、なんだか寂しくもあります。

 

②旧態依然を続ける

時代が変わったなんて言っても、戦争も差別もなくなってない、マイノリティはまだまだ弱い。だから世界はロックンロールを求めている!といって、頑固に昔のロックを続けることもできます。ただ、先述の通りそれが果たして昔のロックスターに近づくことになるのかは、なんだか疑問です。個人的には、様式美のために仮想敵を設定しているような、変な違和感があります。

 

③徹底的に引きこもる

引きこもるといっても、概念的な話です。

個人的には、これが今思いつく中では一番しっくりきます。

社会も他人も時代も関係なく、ただ自分がロックンロール好きでいられればOK

今まで書いてきたことは、結局ロックンロールを「自分vs社会」「自分vs他者」における武器として扱ううえで起きてくる問題です。だったら、もうそんな戦いをしなければいい。

言うなれば「自分vsロックンロール」、自分がロックンロールに心動かされているか、それだけが大事だと割り切ってしまうということです。

誤解を恐れずに言うなら、これをやってるのがクロマニヨンズなんじゃないかと思います。あの人達はほんとにロックンロールが好きで仕方なくて、それをやってるだけって感じがします。ロックンロールは凄いものだから、人々に広めたい!みんなに聴いてほしい!…という思いはなさそうです。恐らくクロマニヨンズにとって、ロックンロールは世間に何かを訴えかける手段ではないんじゃないかと思います。あくまで自分達が楽しむためのものなんだと思います。

エルビス(仮)という曲に、価値のわからない埃をかぶっている宝物、という詞があります。ここでいう宝物をロックンロールのレコードの事だとするなら、ロックンロールは多くの人にとって価値が見出せないようなものであり、またそれでいいんだという思いが見てとれます。

そういう、ある意味で自分勝手な自己満足だからこそ、それを聴く人達には飛びっきりの感謝をしてくれる。ヒロトがライブの度に言う「ありがとう楽しかったよ、またやらせて下さい」という、少し変わった感謝の言葉の言い回しは、それが本質的には自己満足だからこそなのではないかと思います。

人に認められることを考えずに、ひたすら自分のことを突き詰めるというのは、それはそれで難しいような気がします。

ですが、そうでもしないとロックンロールなんてやってられねえのではないでしょうか。

 

幸い、YouTubeApple Musicもあって、自分で音楽を掘る手段はいくらでもあります。

ただしその場合でも、必聴盤と言われてるもの、ロック史上とされるバンドが多すぎて聴くのが大変だという問題はやはり浮上してきます。正に「個性に疲れる」というやつですね…。

しかし、人に伝えたり誰かと話をしたりという目的がないのであれば、いくら時間をかけてもいくら偏っても自分が楽しければいいってわけで、まだ気楽にやれるのではないでしょうか。

 

 

 

 

ドレスコーズ「平凡」から考えたこと

 ドレスコーズ「平凡」を聴きました。

このアルバム、ヤバいです。

今まで音楽に心動かされることはあっても、物の考え方を引っくり返されたような感覚に陥ったのは初めてです。

いや、単純にめっちゃ格好いいアルバムです。世界観も妖しげでそそられますし、音楽的にも洗練されていて何度聴いても飽きない楽曲ばかりです。

しかし今回はあえて、この「平凡」を聴いて僕が考えた事について書いていきたいと思います。

なぜならこのアルバムはあくまで問題提起という位置付けであって、このアルバムを聴いて何を考えるか?というところがより重要だと思うからです。

作り手の方から問題提起として世に送り出されている以上、「ドレスコーズかっけぇ!ライブ行きてえ!!」で済ませてはいけないでしょう。ちゃんと考えたいと思います。

 

なんだか、書いているうちに「このアルバムを聴いたせいで昔のロックが素直に聴けなくなった!どうすりゃいいんだ!」という吐露に近いものになってしまいましたが…。

 

それでもよろしければ、お付き合い下さい。

 

なお、考えるにあたって以下のインタビューを参考にさせていただきました。

 

さて、考察にあたって、あくまで一つの切り口として、このアルバムで指摘され問題提起されている内容を

①個性への疲れ、そして放棄
②さよなら20世紀

という2つの点に分けて考えていきたいと思います。

 
①個性への疲れ、そして放棄

まず考えたいのが、このアルバムで繰り返し見られる「個性なんていらない!」という主張についてです。

改めて周りを見渡せば、現代は個性の押し売りが横行しているようにも感じられます。自分だけの服、自分だけの髪型、自分だけのアクセサリー。自分だけの写真、自分だけのプレイリスト、自分だけのゲームキャラクター。
昨今では個性的な人間であることへの批判が少なくなり、むしろ個性があることを尊重する声が上がるようになりました。

そして、今の時代に個性を主張したかったら簡単です。考えた事を書いて、Facebookなりtwitterなりに投稿すればいいですね。写真や絵でもあれば、もっと多くの衆目に留まるかもしれません。誰だってそうするし、それができます。また個性を育てるという事に関しても簡単で、好きな事についてひたすらググって関連記事を読みまくれば、周りの人が知らない知識が一通り揃ってしまいます。それをすこし飾り付ければ、こんな事に興味がありこんな事に詳しいです、これが私の個性ですと言えてしまいます。

インターネットは少なからず、個性の主張・育成を簡単にしてしまった。

このことがどんな状況を招いたかというと「個性から生み出されるアートや娯楽コンテンツが際限無く膨張を続け、その生産・消費のサイクルがあまりに加速しすぎてしまった」現状です。インタビュー内で「アートの洪水」と表現されているのは、おそらくこのようなことだと思います。
先述のように往々にして個性は尊重されますから、「個性あるひと」は自身の個性を主張します。そこで「個性あるひと」が大量発生し、自らの主張として各々がその個性を発揮したアートを生み出した結果、「アートの洪水」という事態になってしまった、ということではないでしょうか。
また、アートとまでは行かないまでも、SNSへの投稿も自己表現という点ではそれに準ずるコンテンツと捉えても差し支えないように思います。つまり「私はこんな事をしています」「こんな事を考えています」「こんな場所に行きます」「こんな写真を取ります」といったようなものですね。こういった自己表現も、しばしば娯楽コンテンツとして人を楽しませるものになるでしょう。何となくtwitterInstagramを開きたくなるのは、それが娯楽になりうるからです。

そう考えると、世の中いよいよ個性の自己主張だらけということになり、個性があるのが当たり前になってきます。そうすると、かえって飛び抜けた人というものが目立たなくなることも想像がつきます。

みんなちがって、みんな普通。

またこの際、大きな問題として考えられるのが「人間は個性に疲れる」ということです。
先述のような「アートの洪水」あるいは「コンテンツの洪水」という状況下では、受け手は常にほとんど毎日アートや投稿の表現、考え方、問いかけに曝され続けます。
個性的なものには枕言葉のように「独自の世界観」という言葉がよく使われますけれども、そもそも「独自の世界観」とは本来受け入れがたいものであるはずです。それが掃いて捨てるほど存在するようになれば、そんなものは到底受け入れ切れません。無理に受け入れれば疲れてしまうし、強烈な個性に触れ続ければ自分自身の存在のほうが不安定になってしまいます。

また作り手も作り手で、アーティストは受け手に忘れられないために延々と創作を続けなくてはならないし、ブロガーもツイッタラーも定期的な投稿をしないとすぐ忘れ去られてしまいます。

何かしらネタを見つけて、自分らしく仕上げなくてはならないことへの焦燥感。
また、仮にそれによって周囲から個性的な人間に見てもらえたとしても、結局それも「個性的な人間」というテンプレートの範疇にしかならない地獄。

こんな状況では、個性を求めること、個性を主張することへの疲労が溜まる一方なのは想像に難くないです。

そしてその疲労感の行き着く果てこそが、「エゴサーチ・アンド・デストロイ」なのではないでしょうか。

疲れるからこそ、自棄になって「もうmeなんていらない!!」となってしまう。個性を放棄して、平坦な思考の普通な人間になりたがる。

個性はテンプレート化し、無限大に増加していく。そして誰もがいずれ個性を受け入れることに疲れ、個性的な人間に見られることに疲れる。結果として個性を放棄して平凡を求める。

 

以上が個性への疲れ、そして放棄ということです。


②さよなら20世紀

次に、時代というものを軸にして考えてみましょう。
20世紀は個性を尊重する考えが生まれ、マイノリティの権利が叫ばれた時代だったとも言えるでしょう。大戦が終わって、人種差別、性差別、貧富格差やそういったものが社会的悪として認識され、皆が自由な生き方ができることを理想とする考えが広まっていきました。

これらのことの多くは未だ解決はしていないにしろ、一人ひとりの人権や自由がよりより声高に叫ばれた時代だというのは間違いないと思います。
これは言い換えれば、強力な個性ある者が評価された時代だったということであり、ひるがえって「『他の誰でもない自分』であることに価値を見出す時代」だったということにもなります。

 

そこからの決別。ということですね。

 

このアルバムは社会問題よりはカルチャー、アートの方に焦点を当てているように思うので、そちらについて考えてみたいと思います。ちなみに個人的には、「平凡」は20世紀のそういった価値観の否定ではなく、もうそこには居られないという未練を断ち切るための決別という風なニュアンスを感じます。
なぜならこのアルバム、音楽的なアプローチは明らかに20世紀のブラックミュージックを土台にしているからです。
平たくいうとファンキーですよね。
20世紀の音楽文化に造詣が深く、音楽を遡って聴き込んでいるのでなければ、こうはならないでしょう。その時代が好きで、20世紀の膨大なカルチャーを吸収しているであろう人達だからこそ、その時代の終わりもずっとシビアに感じ取っているのではないかと思います。

 

本題に戻りますが、なぜ20世紀と決別しなくてはならないというのでしょうか。

それは、単純に20世紀特有のカルチャーが終わってしまうからでしょう。
これを仮に「20世紀的カルチャーの物語」の終わり、とさせていただきます。
「20世紀的カルチャーの物語」というのは、「特異な個性を持った異端が出現し、それが大衆に認められ、やがて社会が変わっていく」という物語です。例えばビートルズが長い髪で頭を振り乱しシャウトするということをして、それに世界中の若者が熱狂していったような。

それが終わる。

なぜ終わってしまうかというと、考えられる理由のひとつは、①に挙げたように個性に対して疲れてしまった時代が近づいているということです。個性が氾濫した時代である21世紀に、例えばビートルズやデヴィッドボウイのような革新的な存在が現れて世界を大きく変えるというような物語は期待できない。受け手の方にそんなエネルギーがない。
それは20世紀の物語であって、もうピークを迎えて翳りが見えている、ということで…。
そしてもうひとつには、20世紀を彩ったアーティスト達がこれからどんどん死んでしまうという事実、これもあると思います。
実際インタビューの中で、アルバムの制作に関してはデヴィッドボウイとプリンスが亡くなった事に大きく影響を受けたとの旨の言葉がありました。
きっとこれからの十数年で、60年代ロックスターの大多数が旅立ってしまうでしょう。そういった状況はもうすぐそこに近づいてきています。
そんな中で、20世紀の価値観に居座り続けることはできない。無理にこだわろうとしても現実的ではない。なにより悲しくて仕方がない。
だからこそ、20世紀的なカルチャー観には固執していられない。

ということではないでしょうか。

20世紀(さよならフリーダム)という曲には、そのような郷愁が大いに込められているように感じます。

 

はい。

 

さて、以上①②のように考えたところで思うことがあります。それは、

「ロックンロールはどうなるんだ?」

ということです。

ロックンロールの歴史は、正に「20世紀的カルチャーの物語」そのものと言えると思います。なぜなら、ロックンロールは他ならぬマイノリティの音楽であり、個性を叫ぶ音楽だからです。

遡れば1950年代に若者の大人文化へのカウンターパンチとして出現し、70年代にはパンクロックとして社会批判の武器にもなってきました。
人と違う思想を持った者のための音楽、それがロックンロールだったはずです。

ところが現代において個性は抑えられるどころか氾濫しており、わざわざロックンロールで爆音鳴らして主張する必要がない。

むしろ、個性に対して疲れが見え始めている中で、そんな音楽は受け手としてもストレスでしかないかもしれません。それよりむしろ、一人ひとりの個性を覆い隠し、会場全体で一体となるダンスミュージックの方が相性がいいかもしれない。

ロックンロールは現状まだ廃れていないように思います。クロマニヨンズエレカシ斉藤和義奥田民生ウルフルズなどなど大御所はいまだバリバリ活躍中ですし、若手でもBawdiesやGLIM SPANKYなど昔のロックを土台にした音楽で売れてるバンドも沢山います。

ファンも実は老若男女、幅広い印象です。中学生だけどビートルズ好き!というのも意外と見かける話です。

しかし、むしろロックンロールは正にこれから(場合によってはこの「平凡」によって)、本当に時代遅れになっていくのかもしれません。

世代別に考えてみましょう。例えば40〜50代でロックンロールが好きな人というのは、IT革命前の20世紀が青春だったわけで、その延長線上としてロックンロールを味わうことができているのではないかと思います。つまり、ロックンロールで抑圧された個性を解放することによるカタルシス、また個性を認めてもらえることによるカタルシスを実感として持っているのだと思うのです。

だからこそ、今ロックンロールを聴いてもそれを思い出すことができる。

ところが、物心ついた時からSNSがある今の10〜20代では事情が違います。そもそも個性はあって当たり前、スマホを見れば無限に飛び込んでくるから、むしろ主張ばかりで疲れすら感じる。わざわざロックンロールで解放するまでもない。

ましてや「コンテンツの生産・消費サイクルの加速、そしてそれに対する疲れ」という現代特有の悩みに対して、ロックンロールは何の解決策にもならない。むしろ毒でさえある。

だからこそ今の10〜20代は、どう頑張っても上の世代の人達と同じようにロックンロールを経験することはできないのではないか?と思うわけです。

これは恐らく、IT革命前の社会を経験していない世代で、なんかロックンロールを好きになっちゃった人達が直面する問題なのではないかという気もします。

僕は23歳ですが、今まで同世代の人があんまり昔のロックを聴かないことについて、単にそれが時代遅れで知る機会がないから興味を持っていないだけだと思っていました。ちゃんと知ってさえもらえれば、価値のあるものなのだと。

でもそうじゃなくて、ロックンロールはもう根本的な概念から時代に合わない。時代が抱える悩みをもはや何も解決しないし、気休めにもならない。

だから流行らない、のだとしたら。

 

じゃあ、この21世紀におけるロックンロールって何なんだ?

 

このアルバムには僕にとっては、そのような問題提起に感じられました。

 

いずれにしても、ドレスコーズ「平凡」もう少し聴き込んでみて、またじっくり考え直してみようと思います。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。