ロックンロールと21世紀
こんばんは。
チャックベリーが亡くなりましたね…。
御歳90歳ということで大往生ではありますが、それでもやっぱり寂しいです。
バディホリーやエディコクランなど、同世代に活躍したロックミュージシャンの多くが若くして世を去っている中、チャックベリーのように長生きして沢山の作品を遺してくれたのはとても偉大なことのように思います。
ご冥福をお祈り致します。
しかし、この訃報もあって尚更、ここ最近は改めて先週のテーマについてばかり考えてしまいます。
つまり
「ロックンロールはここ数年でいよいよ本当に時代遅れになったんじゃないか?現代の人々の悩みを何も反映しない音楽になったんじゃないか?」
ということです。
古臭いって言われてもロックンロールが好きだぜ〜と言うことができたのは過去の話で、これからの時代に人々が直面する問題に対しては、ロックンロールは何の解決にも気休めにもならないどころか、問題を捉えることさえできないのではないか?ということです。
個性が嫌われる(権力者に個性が抑えつけられるということではなく、一人一人が個性というものに疲れてうんざりしてしまう)時代において、個性を主張する音楽であるロックンロールって何にもならないんじゃないか・・・、と。
チャックベリーもビートルズもストーンズも、もっと言えばピストルズも清志郎もブルーハーツも、見方によっては20世紀の「個性を認めろ、マイノリティを認めろ」という主張に倣うという意味で、同じ流れの上に置くことができると思います。それは人と違うものが好きな自分たちでも楽しくやってやるぜー、という主張でもあると思います。
でもその流れがあった時代と現代には線が引かれてしまっている。あるいは、そこに線を引こうとしているのがドレスコーズの「平凡」なのだと思います。あのアルバムは、向こうとこっちは別の時代ですよ、こっちから向こうには渡れませんよ、と言っているように感じられます。
それの何が問題かって、要するに今の若者はいくら憧れてもチャックベリーにはなれないんじゃないかってことです。清志郎にもなれないし、ブルーハーツにもなれない。
なぜかって、抱えている問題の性質が違うから。悩みが違う。ただ時代が違うというだけじゃなくて、根本的に抱える鬱屈の種類が違う。 スリーコードでリズムを刻むことはできても、それは形をなぞっただけであって、そこに込めるものが違ってくる。
当時からずっとロックを続けている人はいいと思うのです。実際、今の40〜50代の人達が若かった80年代は、自らの個性をロックで叫ぶという事に意味のある時代だったはずで、その中を生きてきた人達だから。
その感覚を持っているから、その続きとして同じ感覚でロックンロールをやることができるんじゃないかと思います。
しかし現代、特に物心ついた時にはネットが普及していた10〜20代は、根本的に抱える悩みが違うように思います。だから本来ロックンロールに込めるべきものがない。それは悪いこととかじゃなくて、時代と共に人々が抱えるテーマが違うという話です。
規範に従うだけでは、褒められるどころかつまらない人間だと思われる。
何か人と違う所がないと恥ずかしい、自分だけの何かがないと居心地が悪い。
スマホを見れば無数の人々の無数の表現が溢れていて、いちいちまともに受け取っていたら疲れてしまう。逆に何かを発信しようとしても、ネットを通して人目につかせること自体は簡単でも、注目を引き続けるには延々と何かを発信を続けなくてはならない。
個性を受け入れるのも、主張するのも、しんどい。
そんな悩みはチャックベリーの時代にも、ビートルズの時代にも、清志郎の時代にもブルーハーツの時代にもなかったのではないでしょうか。
その大きな悩みを脇に置いて、ロックンロールをやってもダメなんじゃないか、と。
こういった次第なのです。
じゃあ、これからの時代にロックンロールが好きな人はどうしていったらいいのか。
そこを考えないといけません。
①違うことをやる
これはもっともな話で、ロックンロールが担ってきた役割が違うものに移ったのだとしたら、違うことをやればいいということです。それはラップかもしれないし、EDMかもしれない。また、ここでファンクを選択したのが今のドレスコーズなんじゃないかとも思います。
でもロックンロールが好きなのに違うことをやらなきゃいけないというのは、なんだか寂しくもあります。
②旧態依然を続ける
時代が変わったなんて言っても、戦争も差別もなくなってない、マイノリティはまだまだ弱い。だから世界はロックンロールを求めている!といって、頑固に昔のロックを続けることもできます。ただ、先述の通りそれが果たして昔のロックスターに近づくことになるのかは、なんだか疑問です。個人的には、様式美のために仮想敵を設定しているような、変な違和感があります。
③徹底的に引きこもる
引きこもるといっても、概念的な話です。
個人的には、これが今思いつく中では一番しっくりきます。
社会も他人も時代も関係なく、ただ自分がロックンロール好きでいられればOK。
今まで書いてきたことは、結局ロックンロールを「自分vs社会」「自分vs他者」における武器として扱ううえで起きてくる問題です。だったら、もうそんな戦いをしなければいい。
言うなれば「自分vsロックンロール」、自分がロックンロールに心動かされているか、それだけが大事だと割り切ってしまうということです。
誤解を恐れずに言うなら、これをやってるのがクロマニヨンズなんじゃないかと思います。あの人達はほんとにロックンロールが好きで仕方なくて、それをやってるだけって感じがします。ロックンロールは凄いものだから、人々に広めたい!みんなに聴いてほしい!…という思いはなさそうです。恐らくクロマニヨンズにとって、ロックンロールは世間に何かを訴えかける手段ではないんじゃないかと思います。あくまで自分達が楽しむためのものなんだと思います。
エルビス(仮)という曲に、価値のわからない埃をかぶっている宝物、という詞があります。ここでいう宝物をロックンロールのレコードの事だとするなら、ロックンロールは多くの人にとって価値が見出せないようなものであり、またそれでいいんだという思いが見てとれます。
そういう、ある意味で自分勝手な自己満足だからこそ、それを聴く人達には飛びっきりの感謝をしてくれる。ヒロトがライブの度に言う「ありがとう楽しかったよ、またやらせて下さい」という、少し変わった感謝の言葉の言い回しは、それが本質的には自己満足だからこそなのではないかと思います。
人に認められることを考えずに、ひたすら自分のことを突き詰めるというのは、それはそれで難しいような気がします。
ですが、そうでもしないとロックンロールなんてやってられねえのではないでしょうか。
幸い、YouTubeやApple Musicもあって、自分で音楽を掘る手段はいくらでもあります。
ただしその場合でも、必聴盤と言われてるもの、ロック史上とされるバンドが多すぎて聴くのが大変だという問題はやはり浮上してきます。正に「個性に疲れる」というやつですね…。
しかし、人に伝えたり誰かと話をしたりという目的がないのであれば、いくら時間をかけてもいくら偏っても自分が楽しければいいってわけで、まだ気楽にやれるのではないでしょうか。
ドレスコーズ「平凡」から考えたこと
ドレスコーズ「平凡」を聴きました。
このアルバム、ヤバいです。
今まで音楽に心動かされることはあっても、物の考え方を引っくり返されたような感覚に陥ったのは初めてです。
いや、単純にめっちゃ格好いいアルバムです。世界観も妖しげでそそられますし、音楽的にも洗練されていて何度聴いても飽きない楽曲ばかりです。
しかし今回はあえて、この「平凡」を聴いて僕が考えた事について書いていきたいと思います。
なぜならこのアルバムはあくまで問題提起という位置付けであって、このアルバムを聴いて何を考えるか?というところがより重要だと思うからです。
作り手の方から問題提起として世に送り出されている以上、「ドレスコーズかっけぇ!ライブ行きてえ!!」で済ませてはいけないでしょう。ちゃんと考えたいと思います。
なんだか、書いているうちに「このアルバムを聴いたせいで昔のロックが素直に聴けなくなった!どうすりゃいいんだ!」という吐露に近いものになってしまいましたが…。
それでもよろしければ、お付き合い下さい。
なお、考えるにあたって以下のインタビューを参考にさせていただきました。
さて、考察にあたって、あくまで一つの切り口として、このアルバムで指摘され問題提起されている内容を
①個性への疲れ、そして放棄
②さよなら20世紀
という2つの点に分けて考えていきたいと思います。
①個性への疲れ、そして放棄
まず考えたいのが、このアルバムで繰り返し見られる「個性なんていらない!」という主張についてです。
改めて周りを見渡せば、現代は個性の押し売りが横行しているようにも感じられます。自分だけの服、自分だけの髪型、自分だけのアクセサリー。自分だけの写真、自分だけのプレイリスト、自分だけのゲームキャラクター。
昨今では個性的な人間であることへの批判が少なくなり、むしろ個性があることを尊重する声が上がるようになりました。
そして、今の時代に個性を主張したかったら簡単です。考えた事を書いて、Facebookなりtwitterなりに投稿すればいいですね。写真や絵でもあれば、もっと多くの衆目に留まるかもしれません。誰だってそうするし、それができます。また個性を育てるという事に関しても簡単で、好きな事についてひたすらググって関連記事を読みまくれば、周りの人が知らない知識が一通り揃ってしまいます。それをすこし飾り付ければ、こんな事に興味がありこんな事に詳しいです、これが私の個性ですと言えてしまいます。
インターネットは少なからず、個性の主張・育成を簡単にしてしまった。
このことがどんな状況を招いたかというと「個性から生み出されるアートや娯楽コンテンツが際限無く膨張を続け、その生産・消費のサイクルがあまりに加速しすぎてしまった」現状です。インタビュー内で「アートの洪水」と表現されているのは、おそらくこのようなことだと思います。
先述のように往々にして個性は尊重されますから、「個性あるひと」は自身の個性を主張します。そこで「個性あるひと」が大量発生し、自らの主張として各々がその個性を発揮したアートを生み出した結果、「アートの洪水」という事態になってしまった、ということではないでしょうか。
また、アートとまでは行かないまでも、SNSへの投稿も自己表現という点ではそれに準ずるコンテンツと捉えても差し支えないように思います。つまり「私はこんな事をしています」「こんな事を考えています」「こんな場所に行きます」「こんな写真を取ります」といったようなものですね。こういった自己表現も、しばしば娯楽コンテンツとして人を楽しませるものになるでしょう。何となくtwitterやInstagramを開きたくなるのは、それが娯楽になりうるからです。
そう考えると、世の中いよいよ個性の自己主張だらけということになり、個性があるのが当たり前になってきます。そうすると、かえって飛び抜けた人というものが目立たなくなることも想像がつきます。
みんなちがって、みんな普通。
またこの際、大きな問題として考えられるのが「人間は個性に疲れる」ということです。
先述のような「アートの洪水」あるいは「コンテンツの洪水」という状況下では、受け手は常にほとんど毎日アートや投稿の表現、考え方、問いかけに曝され続けます。
個性的なものには枕言葉のように「独自の世界観」という言葉がよく使われますけれども、そもそも「独自の世界観」とは本来受け入れがたいものであるはずです。それが掃いて捨てるほど存在するようになれば、そんなものは到底受け入れ切れません。無理に受け入れれば疲れてしまうし、強烈な個性に触れ続ければ自分自身の存在のほうが不安定になってしまいます。
また作り手も作り手で、アーティストは受け手に忘れられないために延々と創作を続けなくてはならないし、ブロガーもツイッタラーも定期的な投稿をしないとすぐ忘れ去られてしまいます。
何かしらネタを見つけて、自分らしく仕上げなくてはならないことへの焦燥感。
また、仮にそれによって周囲から個性的な人間に見てもらえたとしても、結局それも「個性的な人間」というテンプレートの範疇にしかならない地獄。
こんな状況では、個性を求めること、個性を主張することへの疲労が溜まる一方なのは想像に難くないです。
そしてその疲労感の行き着く果てこそが、「エゴサーチ・アンド・デストロイ」なのではないでしょうか。
疲れるからこそ、自棄になって「もうmeなんていらない!!」となってしまう。個性を放棄して、平坦な思考の普通な人間になりたがる。
個性はテンプレート化し、無限大に増加していく。そして誰もがいずれ個性を受け入れることに疲れ、個性的な人間に見られることに疲れる。結果として個性を放棄して平凡を求める。
以上が個性への疲れ、そして放棄ということです。
②さよなら20世紀
次に、時代というものを軸にして考えてみましょう。
20世紀は個性を尊重する考えが生まれ、マイノリティの権利が叫ばれた時代だったとも言えるでしょう。大戦が終わって、人種差別、性差別、貧富格差やそういったものが社会的悪として認識され、皆が自由な生き方ができることを理想とする考えが広まっていきました。
これらのことの多くは未だ解決はしていないにしろ、一人ひとりの人権や自由がよりより声高に叫ばれた時代だというのは間違いないと思います。
これは言い換えれば、強力な個性ある者が評価された時代だったということであり、ひるがえって「『他の誰でもない自分』であることに価値を見出す時代」だったということにもなります。
そこからの決別。ということですね。
このアルバムは社会問題よりはカルチャー、アートの方に焦点を当てているように思うので、そちらについて考えてみたいと思います。ちなみに個人的には、「平凡」は20世紀のそういった価値観の否定ではなく、もうそこには居られないという未練を断ち切るための決別という風なニュアンスを感じます。
なぜならこのアルバム、音楽的なアプローチは明らかに20世紀のブラックミュージックを土台にしているからです。
平たくいうとファンキーですよね。
20世紀の音楽文化に造詣が深く、音楽を遡って聴き込んでいるのでなければ、こうはならないでしょう。その時代が好きで、20世紀の膨大なカルチャーを吸収しているであろう人達だからこそ、その時代の終わりもずっとシビアに感じ取っているのではないかと思います。
本題に戻りますが、なぜ20世紀と決別しなくてはならないというのでしょうか。
それは、単純に20世紀特有のカルチャーが終わってしまうからでしょう。
これを仮に「20世紀的カルチャーの物語」の終わり、とさせていただきます。
「20世紀的カルチャーの物語」というのは、「特異な個性を持った異端が出現し、それが大衆に認められ、やがて社会が変わっていく」という物語です。例えばビートルズが長い髪で頭を振り乱しシャウトするということをして、それに世界中の若者が熱狂していったような。
それが終わる。
なぜ終わってしまうかというと、考えられる理由のひとつは、①に挙げたように個性に対して疲れてしまった時代が近づいているということです。個性が氾濫した時代である21世紀に、例えばビートルズやデヴィッドボウイのような革新的な存在が現れて世界を大きく変えるというような物語は期待できない。受け手の方にそんなエネルギーがない。
それは20世紀の物語であって、もうピークを迎えて翳りが見えている、ということで…。
そしてもうひとつには、20世紀を彩ったアーティスト達がこれからどんどん死んでしまうという事実、これもあると思います。
実際インタビューの中で、アルバムの制作に関してはデヴィッドボウイとプリンスが亡くなった事に大きく影響を受けたとの旨の言葉がありました。
きっとこれからの十数年で、60年代ロックスターの大多数が旅立ってしまうでしょう。そういった状況はもうすぐそこに近づいてきています。
そんな中で、20世紀の価値観に居座り続けることはできない。無理にこだわろうとしても現実的ではない。なにより悲しくて仕方がない。
だからこそ、20世紀的なカルチャー観には固執していられない。
ということではないでしょうか。
20世紀(さよならフリーダム)という曲には、そのような郷愁が大いに込められているように感じます。
はい。
さて、以上①②のように考えたところで思うことがあります。それは、
「ロックンロールはどうなるんだ?」
ということです。
ロックンロールの歴史は、正に「20世紀的カルチャーの物語」そのものと言えると思います。なぜなら、ロックンロールは他ならぬマイノリティの音楽であり、個性を叫ぶ音楽だからです。
遡れば1950年代に若者の大人文化へのカウンターパンチとして出現し、70年代にはパンクロックとして社会批判の武器にもなってきました。
人と違う思想を持った者のための音楽、それがロックンロールだったはずです。
ところが現代において個性は抑えられるどころか氾濫しており、わざわざロックンロールで爆音鳴らして主張する必要がない。
むしろ、個性に対して疲れが見え始めている中で、そんな音楽は受け手としてもストレスでしかないかもしれません。それよりむしろ、一人ひとりの個性を覆い隠し、会場全体で一体となるダンスミュージックの方が相性がいいかもしれない。
ロックンロールは現状まだ廃れていないように思います。クロマニヨンズ、エレカシ、斉藤和義、奥田民生、ウルフルズなどなど大御所はいまだバリバリ活躍中ですし、若手でもBawdiesやGLIM SPANKYなど昔のロックを土台にした音楽で売れてるバンドも沢山います。
ファンも実は老若男女、幅広い印象です。中学生だけどビートルズ好き!というのも意外と見かける話です。
しかし、むしろロックンロールは正にこれから(場合によってはこの「平凡」によって)、本当に時代遅れになっていくのかもしれません。
世代別に考えてみましょう。例えば40〜50代でロックンロールが好きな人というのは、IT革命前の20世紀が青春だったわけで、その延長線上としてロックンロールを味わうことができているのではないかと思います。つまり、ロックンロールで抑圧された個性を解放することによるカタルシス、また個性を認めてもらえることによるカタルシスを実感として持っているのだと思うのです。
だからこそ、今ロックンロールを聴いてもそれを思い出すことができる。
ところが、物心ついた時からSNSがある今の10〜20代では事情が違います。そもそも個性はあって当たり前、スマホを見れば無限に飛び込んでくるから、むしろ主張ばかりで疲れすら感じる。わざわざロックンロールで解放するまでもない。
ましてや「コンテンツの生産・消費サイクルの加速、そしてそれに対する疲れ」という現代特有の悩みに対して、ロックンロールは何の解決策にもならない。むしろ毒でさえある。
だからこそ今の10〜20代は、どう頑張っても上の世代の人達と同じようにロックンロールを経験することはできないのではないか?と思うわけです。
これは恐らく、IT革命前の社会を経験していない世代で、なんかロックンロールを好きになっちゃった人達が直面する問題なのではないかという気もします。
僕は23歳ですが、今まで同世代の人があんまり昔のロックを聴かないことについて、単にそれが時代遅れで知る機会がないから興味を持っていないだけだと思っていました。ちゃんと知ってさえもらえれば、価値のあるものなのだと。
でもそうじゃなくて、ロックンロールはもう根本的な概念から時代に合わない。時代が抱える悩みをもはや何も解決しないし、気休めにもならない。
だから流行らない、のだとしたら。
じゃあ、この21世紀におけるロックンロールって何なんだ?
このアルバムには僕にとっては、そのような問題提起に感じられました。
いずれにしても、ドレスコーズ「平凡」もう少し聴き込んでみて、またじっくり考え直してみようと思います。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
【ライブ】クロマニヨンズ@戸田市文化会館に行ってきた
こんばんは。
じわじわ暖かくなってきました。
先週、3月2日にクロマニヨンズのBIMBOROLLツアーのライブに行ってきました。場所は戸田市文化会館で、ツアー初のホール公演だったそうです。
ホールでのライブだとモッシュがないのが物足りない感じもしますが、僕は初めてクロマニヨンズを観たのがホールだったのでそれはそれで思い出深くもあります。
席は二階の左上スミの方でした。今年はチケットの予約がギリギリだったので、席が取れただけでも上出来です。
セトリは以下の通りでした。
おれ今日バイク
光線銃
マキシマム
デトマソパンテーラを見た
ハードロック
もれている
モーリー・モーリー
スピードとナイフ
ムーンベイビー
ナイアガラ
焼芋
誰がために
ピート
エルビス(仮
突撃ロック
雷雨決行
ギリギリガガンガン
大体そう
アンコール
笹塚夜定食
ナンバーワン野郎!
はい。
いつも通り、最新アルバムの曲を全部やるクロマニヨンズ流石です。今回は曲順はちょっと変えてるんですね。光線銃かなり好きなので、始めからテンション上がってました。
個人的には、スピードとナイフが聴けてよかったです。クロマニヨンズのライブに行くのはもう5回目くらいになりますが、未だに聴けていないシングル曲のひとつでした。
コビーにライトがパッと当たり、あのモータウンベースが聴こえてきて…という流れで、嬉しくてニヤニヤしてしまいました。ええ。
ヒロトはほんとにもーよく動くし、マーシーはステップも健在だし、ギターソロのピッキングハーモニクスがめっちゃキマってるし。
コビーとカツジも、ツアーの度に存在感を増しているような気がします。何より全員本当に楽しそう。
MCも色々ありました。ヒロトが客席に座るよう言ってきたと思ったら「では次に、『千の風になって』を…わたしのぉ〜〜〜〜」なんつって歌い始めるという…。笑った一方、なんかムッシュかまやつさんが亡くなったのを思い出してギクっとしちゃいましたね、、、。
あと、クロマニヨンズ観てみてぇぇって言ってたのも嬉しかったです。そりゃロックンロール好きなら好きでしょうね、クロマニヨンズ…。
今回のツアーの恒例(らしい)コールアンドレスポンスもありましたね。メンバー紹介です。最近は、ロックコンサートの定番をどんどん取り入れてきます。
「マーシーーーーー!!好きな人の名前を呼ぶのは気持ちいいぜーーーっ!!」って、話には聞いていた堂々たるのろけを実際に聞くことができました。
そしてメンバー紹介はマーシーに続いてコビー、最後にカツジ…からの、そのままペテン師ロック!ここの流れが最高でした。
ここからのペテン師ロック→エルビス→突撃ロック→エイトビート→雷雨決行→ギリギリガガンガンは、個人的に過去最強の並びでした。もうエルビスあたりから涙腺緩みっぱなしでずっと顔面ぐしゃぐしゃでした。ずるいよ。
僕はクロマニヨンズを中学高校の頃からずっと聴き続けていて、「ロックンロール」という単語に興味を持ったのもヒロトとマーシーがキッカケでした。
高三の苦しい大学受験の頃にACE ROCKERが出て、雷雨決行を聴いて、ナンバーワン野郎を聴いて。 そんで大学に上がって、ロックコンサートなんか行った事もないのに初めてクロマニヨンズのライブに行って、一曲目が突撃ロックで。
ライブでそういう昔の曲が演奏されると、10代で抱えてた悩みなんかと一緒に、その頃そのままの感動がいっぺんにワーッと押し寄せてくるもんで、こればっかりはもうどうしようもないです。なんで泣いてるのか自分でもわからん。
ここ最近にしたって、いよいよロックスターが寿命でこの世を去るような時代になってきて、仕方ないけどモヤモヤしてたところにエルビスが突き刺さってきました。そうやって、現在進行形で心を震わされ続けています。
ということで、今回も大満足のライブでした。何度でも言いますが、一番好きなバンドが毎年アルバム出してツアーやってくれてるって最高です。
一回でも多く行きたいものです、ほんとに。
フレディ・アンド・ザ・ドリーマーズを聴く
こんばんは。
花粉がそろそろきそうな感じですね。
僕は「60年代ブリティッシュ・ビート」という本を持っています。その名の通り60年代のビートブーム時代と呼ばれる時期のバンドを写真つきで紹介している本でして、これがまーよくまとまっていて面白いです。
聴くものに困った時は、何はなくともコイツを開いて探してみれば間違いない。そんな宝の地図のような本です。
今回はこの本から、フレディ・アンド・ザ・ドリーマーズというバンドを取り上げてみようと思います。
サムネを見ると眼鏡の白人、はてバディ・ホリーかな?と思って開くと、明らかに挙動がヤバい。な、なんだこれ…。
このバンドはマンチェスター出身で、60年代半ばに活躍したブリティッシュ・インベイジョンど真ん中のバンドのようです。つまりイギリスから出てきてアメリカでも人気が出たという典型で、このI'm Telling You Know(邦題:好きなんだ)は当時アメリカのチャートで一位を取ったシングル曲ですね。
イギリスのバンドってどことなく暗めでしっとりしたイメージがあるのですが、フレディ・アンド・ザ・ドリーマーズはとにかく陽気ですね。特にフロントマンのフレディ・ギャリティの動きは、アメリカンコメディやディズニーのアニメキャラクターのようです。これもイギリスなのかと。
なんだろう、この背景…。
最後の方に全員集合して、他の出演者?が微妙に恥ずかしそうに踊ってるのが最高です。
よく聴いてみると、コミックバンドかと思いきや曲はとてもポップで歌やコーラスも上手です。音的には優等生っぽいのがなんとも面白いですね。これをパンクにしたら50回転ズみたいになりそうです。
ストーンズやビートルズがある意味でアイドルとして売り出していた時期に、こういったコミカルなのステージを売りにしていたバンドもいたんだなーというのが新鮮です。
このバンドは解散が1966年と結構早くて、フロントマンのフレディはそれ以降子供向けのTV番組やキャバレー回りに活動を移したそうです。
…や、やっぱりコメディアンなのでは。
30年後の姿もyoutubeにありました。歳はとっているけど、なんも変わってないっすね。
なぜか冒頭のヒャハハハハーで目頭が熱くなります。ぶれない格好良さ。
50回転ズも歳とったらこんな感じなのかな…。
今週はいよいよクロマニヨンズのライブです。楽しみ。時間に間に合うといいな…。
テレキャスターとオッサンと女子
こんばんは。
マーシーが誕生日だそうで、おめでとうございます。歳を重ねて衰えるどころか益々カッコよくなっていくの、本当に凄いと思います。ずっと追いかけてます。
来週ライブ行きます。やー楽しみ。
さて、今回も前回に引き続き、テレキャスターについての話です。
果たしてテレキャスターはおっさんなのか、それとも女子なのかについて考えてみたいと思います。わーい。
最近(といっても数年前かも)、テレキャスターを持った女子、「テレキャス女子」というものが取り上げられていると思います。
チャットモンチーからSHISHAMOまで、たしかにガールズバンドのギターボーカルのテレキャス率の高さには目を見張ります。また、何もプロでなくても、高校や大学の軽音部のギター女子のテレキャス率も相当高い気がします。いつだったか、能年玲奈がステッカーだらけのテレキャスを抱えた姿で雑誌の表紙を飾ってましたね。
極端なことを言えば、テレキャスターのステレオタイプの1つに「ガールズバンドの子が持ってる可愛いギター」というのもあると思います。
ただ面白いのは、これがもう少し上の世代になると意見が全然違ってくることです。
曰く、テレキャスはオッさんくさい。
可愛いどころかテレキャスは渋い、無骨なギターだという意見ですね。完全に真逆です。
この認識の差は何なのでしょうか。
今回はこれについて考えてみます。
まず、テレキャスの女子っぽいところについて、もうちょっと掘り下げてみましょう。
むかし部活の先輩に、テレキャスターを使っている女子はほとんどチャットモンチーに憧れているのだと聞きました。
今だったらSHISHAMOなんですかね…。
女子のテレキャス率が高い理由として、まず1つは憧れという要素があると思います。
要は、えっちゃんが使ってるから使う。
シンプルながら間違いない理由です。
バンド全体からするとガールズバンドの占める数ってまだそこまで多くはないので、必然的に憧れの対象になるようなギタリストとなると数が絞られてくるというのもあると思います。
また、憧れということの他に、テレキャス自体がエレキギターの中でも女子に相性がいいモデルなのかもしれません。
というのも、どうも周りを見てると、女の人は結構ずっと一本のギターを使い込んでいく印象があります。それこそ田渕ひさ子とかもそうですし。
この一本を使い込むという点において、テレキャスターはかなり用途に合ったギターだと思います。比較的軽いし、丈夫だし、一本でなんでもできるし。
また、カラーリングがわりと明るくて綺麗というのも理由かもしれません。ホワイトブロンドやキャンディアップルレッドなんかは、そういう目で見れば女の子っぽいカラーリングです。特にキャンディアップルレッド、赤いテレキャスは人気がある印象です。名前からしておいしそうですし、女子力高そう。
さて。一方、テレキャスがオッさん御用達だという意見について考えましょう。
ちなみに僕はこれ、めっちゃ良く分かります。
なぜかと言えば、テレキャスは名だたる歴代ロックスター達に愛されてきた経緯があるからですね。
そもそもテレキャスターは歴史の古いギターでして、フェンダー社の作った最初のソリッドギターです。実はストラトやレスポールやSGなど世のほとんどのエレキギターよりも先輩にあたります。それもあって、60〜70年代ロックスターにも使用者は多いです。
まず何と言ってもキース・リチャーズ、この方はオープンGで五弦にしたテレキャスがトレードマークですね。木目がナチュラルっぽいので、これは多分マルコムでしょうか。
ブルース・スプリングスティーンのトレードマークもテレキャスです。Born To Runのジャケットで彼が抱えるテレキャスはインパクト大です。
また、エルヴィス・プレスリーのバックでギターを弾いていたジェームズバートンもテレキャスターですね。後は、先週も触れたジミー・ペイジやウィルコ・ジョンソン、そしてパンク勢としてはジョー・ストラマーも外せません。
他にもミック・グリーン、オルガ、ダニー・ガットン、ジョージ・ハリスン、ジェフ・ベック、などなど…僕が思いつく範囲でさえ、挙げればキリがありません。
つまり、この辺の時代のギタリスト達に憧れを持っていても、テレキャスに引き寄せられるというわけです。この場合はバタースコッチブロンドやサンバーストなどの色を選ぶことになるでしょう。しぶい。
当然、日本でもこういったロックスター達の憧れからかテレキャスを手に取った人達もいて、チャボやマーシー、アベフトシ、ダニー、くるりの岸田繁、斉藤和義、その他にも大勢いそうです。あと個人的には、いま50〜60代でバンダナ着けてテレキャスを抱えていた写真が残っている人はみなキースリチャーズ意識だと思います。はい。
また色に関して、先程赤いギターは色が可愛いから女子っぽいと書きましたが、
ブルースの巨人にしてストーンズの憧れの存在、マディ・ウォーターズが赤いテレキャスを使っています。昔のキャンディアップルレッドってなんか色が違いますね。日焼けした感じというか…。
また向井秀徳のメイン機の1つも実は赤色です。
赤いテレキャスというとこういうイメージもあります。こうなると、先程まで女子力を発揮していたりんご色が、鈍く輝く赤銅色に見えてくるから不思議です。
はい。
SHISHAMOとマディ・ウォーターズを同記事で並べるとっ散らかり加減ったらないですね。
時代を超えて様々なギタリストに使われてるのに、その使われ方が全然違うところが面白いです。それだけ幅のきくギターなのでしょう。
そもそも発売から半世紀近く経つのに、未だに形が変わらないのも凄い話です。
一本欲しい…けど、僕はレスポール派です。
テレキャスに関しては他の人に使って欲しい、そしてたまに貸してほしい、みたいな、こう。
そのあたり複雑な感情を抱えています。
テレキャスターの音
こんばんは。
さっっむい・・・。
今回はテレキャスターというギターについて考えてみたいと思います。
エレキギターと言ったらストラトかレスポールか、あるいはテレキャスかというくらいに、テレキャスターはギターの中でも知名度の高いモデルだと思います。
曲のタイトルになる事も多く(凛として時雨の「テレキャスターの真実」、キュウソネコカミの「テレキャスばっか」など)、そう言った意味でギター弾かない人でもテレキャスという単語だけは知ってるってこともあるのではないでしょうか。
このテレキャスター、何かにつけてステレオタイプのすごく多いギターだと思っています。音色がジャキジャキしている、ギターボーカルがよく持っている、ガールズバンドでよく出てくる、サブカルっぽい、などですね。その真否はおいておいても、キャラ付けがされやすい、キャラクター性を見出されやすいギターなのは間違いなさそうです。
そこで今回は、特にこうしたテレキャスターのステレオタイプの中でも、音色に関する部分について考えてみたいと思います。
まず何と言ってもこの「ジャキジャキしている」という表現です。最初聞いた時はギターでジャキジャキてなんじゃいと思ったんですが、
これに関しては、この人の影響に尽きると思います。NUMBER GIRL、ZAZEN BOYSのギターボーカル、向井秀徳ですね。
高音域をガンガンに効かせたクランチトーン。多分これ、ライブで大きい音で聴いたら耳が痛くなるくらいのセッティングだと思います。6本の狂ったハガネの振動と言ってるだけあって、非常に金属質な音です。そこのところをジャキジャキと言っているようです。
ナンバガでは田渕ひさ子のジャズマスの音がヤバい轟音で鳴っているので(これもこれでとんでもないですが)、ZAZEN BOYSもしくはソロの曲の方が向井秀徳のギターの音は良く聴こえます。
こうしてギター単体で聴くと、冷たい感じのエッジの効いた音で、ジャキジャキってこれか!と良くわかります。
また、カッティングが武器のテレキャス使いといえばアベフトシが挙がるでしょう。
例えばこの曲でイントロから鳴っている、コードストロークの際のチャカチャカいう歯切れの良い音がカッティングですが、この人の場合それを16分連射でぶっこんできます。マシンガンの発射音に似ていることから、マシンガンカッティングと呼ばれるスタイルですね。 右手が滅茶苦茶柔らかくて、左手の力加減が絶妙で、なおかつ正確なリズムが刻めないとまともに鳴らせない、ギタリスト泣かせの技術です。
そしてマシンガンカッティングといったらこの人です、ウィルコジョンソン。この人もずっとテレキャスターをメインに使用していますね。カッティングが得意なテレキャス使いを遡るとどっかでこの人に当たるんじゃないかと思います。
そのウィルコジョンソンのギター解説動画があります。イギリス発音だとtelecasterは「テレカスター」なんですね…。 カッティングもスタッブて言うんですねー。
このようにカッティングの達人たちがメインギターとして使っているという点で、テレキャスはカッティングに向くという太鼓判を押されているようなものです。これについてはステレオタイプでなくれっきとした事実と言えるでしょう。
一方で、じゃあテレキャスはジャキジャキでカッティング向きのギターかと言いますと、それだけでもないようです。テレキャスは音が太い、という意見も最近よく聞きます。
音が「太い」という表現もギター特有でイメージにしにくいなぁといつも思うんですが、単音でパンチのある音が出るという感じなんでしょうか。ジミーペイジはレスポールがトレードマークですが、初期はテレキャス弾きだったのは有名な話です。Stairway To Heavenのギターソロはテレキャスで録音されてるって楽器屋のお兄さんから聞きました。
新曲よいですねー。
The BawdiesのTAXMANもテレキャスがメインで、フェンダーからシグネチャーモデルも出てますね。ジャキジャキともカッティングとも違う、リフでゴリゴリ攻める印象です。
これもまた太くて格好いい、テレキャスターの音色です。
なんだか改めて聴き比べると、「結局、弾き手によるんじゃないか?」という気がしてきますが・・・。
昨今言われるテレキャスの音色のイメージの真相は、それぞれそのイメージ通りの音を出している人が実際にいて、だからこそ全部正解で全部テレキャスターらしい音なんだということなのでしょう。
となると、ギターやってる人にはテレキャスを弾かせてみれば、その人の音楽的なバックグラウンドがより浮き彫りになって面白いかもしれないですね。
BUMP OF CHICKEN 66号線とRoute 66
こんばんは。
ここ何日かは暖かいですね。いいことです。
今回は、BUMP OF CHICKEN の66号線という曲についてです。
ロックンロールで一夜漬けというこのブログで折に触れてBUMP OF CHICKENの話をするのは、僕が常日頃から「もしかしたら、このバンドがやってるのはロックンロールなんじゃないか?」という思いを抱えているからです。よろしくお願いします。
そして今回も、まさにそんな話です。
BUMP OF CHICKENには、「66号線」という曲があります。
COSMONAUTという、4thアルバムにあたる作品に収録されている曲です。シングルカットされているわけでもなく、またライブで演奏されることも珍しい、比較的マイナーな曲です。
しかしファンの間ではなかなか根強い人気のある曲のようで、Twitterで66号線と検索をかけると「バンプでは66号線が好きです!!」という呟きも未だにちらほら見られます。
アコギのストロークから始まるゆったりしたバラード曲で、歌に重なるアルペジオやドラムロールが聴いていてとても心地よい一曲です。
さて、この66号線、聴いていると「このタイトルどんな意味?なんで66なの?」という疑問がでてきます。その理由は、バンプに詳しい先輩に話を聞いたところ、なんでもバンプと親交のあるマネージャーさんのラッキーナンバーが66なのだそうです。この曲はその方にあてたものなのでは、という事でした。なるほどたしかにネットで見ても、知恵袋で同じような話が出てきます。ラジオで言ってたんですね。
ですが、あえて申し上げたい。
「66号線といえばRoute 66じゃないか!!」
はい。ここから本題に入ります。
あくまで、先にあげたそのラッキーナンバーの説自体が違うと言いたいわけではありません。
知恵袋に準拠するなら、むかしバンプは人形劇ギルドでも66という数字を使っているそうで、それが本当ならBUMP OF CHICKENの面々は66という数に何らか思い入れがあるのは間違いないでしょう。そこでこの曲にあたっても66という数字を使った可能性は十二分にあります。
しかし、66という数字それだけでなく、66「号線」というのであれば、それはロック史からいって重要な地名を指すことにもなります。
つまりRoute 66、アメリカの高速道路66号線ですね。
アメリカのスタンダードナンバーのひとつに、Route 66という曲があります。
66号線をぶっとばすぜ!最高だぜ!
という、言わばご当地ソングです。
大元はどうもナットキングコールのジャズナンバーのようですが、チャックベリーがカバーしたことで、それに続いてローリングストーンズ、ドクターフィールグッドといった大御所がR&B調にカバーしています。
ストーンズの1stアルバムにも収録されていますね。
個人的にはドクターフィールグッドのカバーが好きです。リフが歯切れ良くて最高です。
つまりは、ロックンロールのご先祖様や超大御所がこぞってRoute 66という曲をカバーしているというわけです。
そして、Route 66というタイトルを日本語訳したらそのものズバリ66号線、です。
そもそもバンプ(というか作曲担当の藤くん)は昔の音楽も相当聴きこんでいるようなので、これらの曲を知っていたとして何ら不思議はないです。むしろここからのオマージュを多少なり含んでいると考える方が自然ではないかと思うのですが…。
いかがでしょうか。
いずれにしても隠しトラックにLet It Beが入っていたり、こういう古い曲との関係を匂わせる曲がフッと組み込まれていたり、今の自分の趣味をふまえて聴き直しても色んな発見があるのは楽しいことです。
そのうち遠い未来に原点回帰して、シンプルなスリーコードのロックンロールとか作ったりしないかな…。
などと、こっそり期待しています。