ロックンロールで一夜漬け

ロックンロールで一夜漬け

音楽に踏み込む探検日記

ドレスコーズmemeツアーファイナルに行ってきた

 

 

おはようございます。

新学期ですね、週末で散るといわれていた桜が意外とまだ元気です。

 

昨日、新木場スタジオコーストドレスコーズmemeツアーファイナルに行ってきました。

このあいだ出た最新アルバムの「平凡」を聴いてめっちゃ衝撃を受けまして、これはライブを観に行かなくてはと思い立った次第です。

アルバムはエゲツない程ファンキーな演奏で、なおかつ20世紀のカルチャーそのものと決別するかのような世界観がぶちこまれた、とんでもない作品でした。

それを引っさげてのこのライブだった訳ですが、これももう輪をかけて大変なものを観させられた印象です。

普段飽きもせずロックンロールのライブばっかり行ってる身からすると、正直「訳わかんないけどすごい、やべぇ」意外の言葉がないですね…。DVD出たら買います。これは本当にじっくり観ないと分からない。

とはいえ、折角ライブに触れた直後ですので、一回ここで改めて振り返ってみたいと思います。

 

まずセットリストですが、 

1.common式

2.平凡アンチ

3.マイノリティーの神様

4.towaie 

5.メロディ 

6.ストレンジャー

7.規律/訓練

8.Automatic Punk

9.ヒッピーズ

10.エゴサーチ&デストロイ

11.人間ビデオ

12.ゴッホ

13.アートvsデザイン

 

encore

1.人民ダンス

2.20世紀(さよならフリーダム)

 

 でした。過去曲もいくつか見られますが、ほとんどはアルバムの再現に徹している感じですね。今回かなり飛び抜けて異質なので、当然といえば当然かもしれませんが…。

またドレスコーズは、フロントマンの志磨遼平以外はライブの度に毎回メンバーが変わることで知られています。今回はというと、まずホーンが3人、パーカスが1人、そしてドラム、ベース、ギター、ボーカルという8人編成でした。

ホーンとパーカッションがいて、平凡のアルバム音源をほぼそのまま再現できる編成となっていましたね。

 怪しげなSEが流れてメンバーが登場すると、これもまた不穏なギターの音色から始まって、そのまま挨拶なしに一曲目のcommon式へ。ボーカルの志磨遼平は終演まで一貫して、グレーのスーツとシャツに眼鏡のいでたちでした。ジャケット写真の通りの格好ですが、実際に見ると尚更異質です。

動きはなんだか独特で、普段とはロックスター然とした振る舞いとはまた一味違う様子でした。手足を振り回す激しい動きは減って、かわりにパントマイムのように両手で壁を作るようなポーズなんかが多かったです。なんというかカクカクしていて、人形やロボットみたいな感じでした…。

演奏に関しては、まずcommon式、平凡アンチなどアルバムでも好きだった曲はますます磨きがかかってゴリッゴリになっていてめっちゃ良かったです。ファンクって元々はソウルをさらに泥臭くしたような黒人音楽で、本来はめっちゃ生々しいものであるはずですが、衣装や歌詞、パフォーマンスも相まって「熱く激しいのに虚無」というような、観たことないような何かになっていたように感じました。

他の曲に関して言えば、規律/訓練がずいぶんライブ化けしたなというのが印象的でした。あんなに大暴れする曲だったとは。ホイッスル吹きまくって号令みたいなポーズで叫ぶ志磨さんの横でギターを地面に叩きつける有島コレスケとやべえ絵面でした。そしてこの規律/訓練のあとに過去曲のAutomatic Punkをぶっこんでくる展開も難しくて最高です。この2曲ってわりと対極の主張のような気がするんですが…。

 ギターといえば、今回ギタリストは有島コレスケでした。普段ベーシストとしてよくドレスコーズに登場する方ですね。ギタリストとして観るのは初めてでしたが、テレキャスター1本でファンクらしい16分カッティングから、ぶっといリードギター、飛び道具的なディレイから穏やかなクリーントーンアルペジオまで、非常に多彩な音色を使い分け1人で何役も担っているような様子でした。マルチプレイヤーで多彩な音世界を持ったベーシストって格好いいっすね…。

ベースは山中治雄、ドレスコーズの初代ベーシストですね。残りの初期メンバー2人と違ってどうもここ最近は主だった出番がなかったようですが、ここで再び登場したことで喜んだファンも多かったのではないかと思います。名前を叫ぶ声も聞かれました。

アルバム音源の吉田一郎も本当に大概ですが、それに劣らないゴリッゴリのベースでした。

特にAutomatic Punkのおどろおどろしいベースラインとコーラスが良かったです。この曲ファーストアルバムの中で一番好きなので、聴けて嬉しかったです。

テレビなんかより戦争がしたい。

 

また全体の構成で印象的だったのが、激しい演奏とは裏腹に、ライブ自体は終始とても淡々と進んでいったということです。煽るようなMCや語りはなく、大道具のような派手な演出もなし。 ただ曲が演奏されていくだけという、それ自体も平凡の表現の一つなんだろうなと思います。演奏以外で異常性のアピールや個性の主張を一切せず、演奏中も今までのドレスコーズのように客席に飛び込んだり、煽ったりもしない。

そして何より最後の曲、20世紀(さよならフリーダム)、これがとても良かったです。ファンク色を残しつつもテンポは抑えられ、歌謡曲といった方がいいような古き良き空気を醸す穏やかなメロディの曲でした。ロックバンドのツアーファイナルとは到底思えないような静かな終わり方でした。

しかし最後のメンバー挨拶では本当に誰もが良い笑顔で多幸感に満ちていて、ああこのツアーでこの人達がやりたかったのはこういうものだったんだな、と改めて思いました。

「さよならデヴィッドボウイ!さよならチャックベリー!さよなら資本主義!さよなら20世紀!ありがとう!」と叫び、笑顔で穏やかに終わる。そんなライブは、20世紀のロックンロールやカルチャーに精通し、なおかつ21世紀を生きる人達だからこそできるものだと思います。

 実は今回、個人的に音源とライブで一番違いを感じたのが、このライブ後の穏やかで幸せな空気感です。もっと喪失感のある感じかと思いきや、全然そんなことなく、むしろ真逆の余韻があるものだったのです。

曲のテーマは個性の否定なのに、とても個々のメンバーの持ち味が光る演奏。20世紀との決別の歌のはずなのに、その時代への愛に溢れたメロディ。熱いのにどこか虚無で、悲しいのに穏やかで前向き。色々と相反する要素がぶつかり合っていて、不思議な気分になるライブでした。 

また他に面白いなーと思ったのがライブ前後に流れていたラジオ風のBGMで、聞いた限りでは「今ではとても聴くことのできない20世紀の曲をご紹介いたします。放送禁止かもしれませんね。」といったmcがありました。これは「近未来のファンクバンド」という今回の設定に乗っかった近未来のラジオ番組ということだったのかもなと思います。こうしたSEやロビーのポスターなど、細かな所にも芸が細かい仕掛けがあって面白かったです。

 

はい。

 

以前ここに書いたことにも絡みますが、ライブも含めてこの「平凡」は、これからどんどん20世紀の文化の担い手が亡くなっていくという未来に向き合ったうえで、その事に対する一つの答えになりうる姿勢を提示しているのではないかと思いました。 

それはおそらく特に20〜30代の物好きにとって今後めちゃめちゃ大事になってくるテーマで、だからこそこのタイミングでこの作品に出会えて良かったと思います。

とはいってもこのままずっとドレスコーズがファンクギャングでいるとも思えないので、次はどんな形で来るのか楽しみでもあります。

 

ともあれ、DVD待ちです。

GEZANの活動再開と新曲

 

ごぶさたしております。

 

1週間空いてしまいました。

年度の分かれ目は色々大変ですね…。

 

さりとて、現在活動中のバンドは刻一刻と状況が変わっている訳でして、

ヘルシンキラムダクラブからギターが抜けてしまったり、マヤーンズが5人編成になったり、インディーズは特に入れ替わりが激しいです。

そんな中で今回は、GEZANのドラムが新加入したことについて書いていきたいと思います。

 

GEZANについては以前、昨年の8月のドラムが抜ける最後のライブ前にここで取り上げさせていただきました。

サイケデリックで、ハードコアで、破滅的で、でもどこか子供のような無邪気なキラキラ感を持ったバンドだと思います。

僕はあんまり普段ハードコアによったタイプのは聴かないんですが、そのたまに垣間見えるキラキラが気になって、一昨年のロッケンローサミットで観て以来なんとなく動向を追っているという、僕にとってはそんなバンドです。

 

昨年の8月31日をもってドラムが脱退して、以来3人編成でライブしたりという状態が続いていたようなのですが、今年2月28日に新ドラムが正式に加入してのライブがあり、復活する運びになったようです。

ナンバーガールのようにメンバーが1人抜けて、それをきっかけに解散という事例も多いので、これはほんとに嬉しいことです。

で、その新編成でのライブでの曲がYouTubeに上がってまして、これがいい曲で。

 

終わらない歌が終わった、リンダリンダはもうきこえない、とブルーハーツの曲を取り上げた歌詞が印象的です。そして何より、2ndアルバムあたりまでのギンギンなサイケデリックと比べると、音が凄く爽やかに突き抜けたなと驚かされます。極端な話、全く違うバンドのようです。

ボーカルの子供のような不思議な歌声も、歌詞の世界観にあって良いです。曲に合わせてか、心なしか声の出音が真っ直ぐになってる感じで、歌上手い人だったんだなあと今更ながら思いました。

 

とはいえこの流れはドラム脱退前の頃から始まっていまして、旧メンバーの4人編成での最後のアルバムであるNEVER END ROLLというアルバム、これが本当に素晴らしいです。

結果的に先行シングルのような格好になった「言いたいだけのvoid」を始め、轟音はそのままにポップで爽快感のある曲が目白押しとなっています。それまでのGEZANのイメージカラーは血のような真っ赤だったようなのですが、このアルバムに関してはジャケット写真も含めて澄んだ真っ青といった印象です。

個人的には、以前から垣間見えていたキラキラ感がより前面に出てきたようで、こっちの方がずっと好みです。

新加入のドラムに関しては、ライブ行かないと分からないところもありますが、YouTubeで聴いた感じパンチがめちゃめちゃありますね。スネア一発の音だけでも主張がすごい。GEZANにはめっちゃ合ってるんじゃないかと思います。

今後はこのまま透き通ったような曲のパンクバンドになるのか、またグロテスクでサイケな方向に行くのか、どちらにしても今後が楽しみです。

 

ロックンロールと21世紀

こんばんは。

 

チャックベリーが亡くなりましたね…。

御歳90歳ということで大往生ではありますが、それでもやっぱり寂しいです。

バディホリーやエディコクランなど、同世代に活躍したロックミュージシャンの多くが若くして世を去っている中、チャックベリーのように長生きして沢山の作品を遺してくれたのはとても偉大なことのように思います。

 

ご冥福をお祈り致します。

 

しかし、この訃報もあって尚更、ここ最近は改めて先週のテーマについてばかり考えてしまいます。

つまり

「ロックンロールはここ数年でいよいよ本当に時代遅れになったんじゃないか?現代の人々の悩みを何も反映しない音楽になったんじゃないか?」

ということです。

古臭いって言われてもロックンロールが好きだぜ〜と言うことができたのは過去の話で、これからの時代に人々が直面する問題に対しては、ロックンロールは何の解決にも気休めにもならないどころか、問題を捉えることさえできないのではないか?ということです。

個性が嫌われる(権力者に個性が抑えつけられるということではなく、一人一人が個性というものに疲れてうんざりしてしまう)時代において、個性を主張する音楽であるロックンロールって何にもならないんじゃないか・・・、と。

チャックベリーもビートルズストーンズも、もっと言えばピストルズ清志郎ブルーハーツも、見方によっては20世紀の「個性を認めろ、マイノリティを認めろ」という主張に倣うという意味で、同じ流れの上に置くことができると思います。それは人と違うものが好きな自分たちでも楽しくやってやるぜー、という主張でもあると思います。

でもその流れがあった時代と現代には線が引かれてしまっている。あるいは、そこに線を引こうとしているのがドレスコーズの「平凡」なのだと思います。あのアルバムは、向こうとこっちは別の時代ですよ、こっちから向こうには渡れませんよ、と言っているように感じられます。

それの何が問題かって、要するに今の若者はいくら憧れてもチャックベリーにはなれないんじゃないかってことです。清志郎にもなれないし、ブルーハーツにもなれない。

なぜかって、抱えている問題の性質が違うから。悩みが違う。ただ時代が違うというだけじゃなくて、根本的に抱える鬱屈の種類が違う。 スリーコードでリズムを刻むことはできても、それは形をなぞっただけであって、そこに込めるものが違ってくる。

当時からずっとロックを続けている人はいいと思うのです。実際、今の40〜50代の人達が若かった80年代は、自らの個性をロックで叫ぶという事に意味のある時代だったはずで、その中を生きてきた人達だから。

その感覚を持っているから、その続きとして同じ感覚でロックンロールをやることができるんじゃないかと思います。

 

しかし現代、特に物心ついた時にはネットが普及していた10〜20代は、根本的に抱える悩みが違うように思います。だから本来ロックンロールに込めるべきものがない。それは悪いこととかじゃなくて、時代と共に人々が抱えるテーマが違うという話です。

 

規範に従うだけでは、褒められるどころかつまらない人間だと思われる。

何か人と違う所がないと恥ずかしい、自分だけの何かがないと居心地が悪い。

スマホを見れば無数の人々の無数の表現が溢れていて、いちいちまともに受け取っていたら疲れてしまう。逆に何かを発信しようとしても、ネットを通して人目につかせること自体は簡単でも、注目を引き続けるには延々と何かを発信を続けなくてはならない。

 

個性を受け入れるのも、主張するのも、しんどい。

 

そんな悩みはチャックベリーの時代にも、ビートルズの時代にも、清志郎の時代にもブルーハーツの時代にもなかったのではないでしょうか。

その大きな悩みを脇に置いて、ロックンロールをやってもダメなんじゃないか、と。

こういった次第なのです。

 

じゃあ、これからの時代にロックンロールが好きな人はどうしていったらいいのか。

そこを考えないといけません。

 

①違うことをやる

これはもっともな話で、ロックンロールが担ってきた役割が違うものに移ったのだとしたら、違うことをやればいいということです。それはラップかもしれないし、EDMかもしれない。また、ここでファンクを選択したのが今のドレスコーズなんじゃないかとも思います。

でもロックンロールが好きなのに違うことをやらなきゃいけないというのは、なんだか寂しくもあります。

 

②旧態依然を続ける

時代が変わったなんて言っても、戦争も差別もなくなってない、マイノリティはまだまだ弱い。だから世界はロックンロールを求めている!といって、頑固に昔のロックを続けることもできます。ただ、先述の通りそれが果たして昔のロックスターに近づくことになるのかは、なんだか疑問です。個人的には、様式美のために仮想敵を設定しているような、変な違和感があります。

 

③徹底的に引きこもる

引きこもるといっても、概念的な話です。

個人的には、これが今思いつく中では一番しっくりきます。

社会も他人も時代も関係なく、ただ自分がロックンロール好きでいられればOK

今まで書いてきたことは、結局ロックンロールを「自分vs社会」「自分vs他者」における武器として扱ううえで起きてくる問題です。だったら、もうそんな戦いをしなければいい。

言うなれば「自分vsロックンロール」、自分がロックンロールに心動かされているか、それだけが大事だと割り切ってしまうということです。

誤解を恐れずに言うなら、これをやってるのがクロマニヨンズなんじゃないかと思います。あの人達はほんとにロックンロールが好きで仕方なくて、それをやってるだけって感じがします。ロックンロールは凄いものだから、人々に広めたい!みんなに聴いてほしい!…という思いはなさそうです。恐らくクロマニヨンズにとって、ロックンロールは世間に何かを訴えかける手段ではないんじゃないかと思います。あくまで自分達が楽しむためのものなんだと思います。

エルビス(仮)という曲に、価値のわからない埃をかぶっている宝物、という詞があります。ここでいう宝物をロックンロールのレコードの事だとするなら、ロックンロールは多くの人にとって価値が見出せないようなものであり、またそれでいいんだという思いが見てとれます。

そういう、ある意味で自分勝手な自己満足だからこそ、それを聴く人達には飛びっきりの感謝をしてくれる。ヒロトがライブの度に言う「ありがとう楽しかったよ、またやらせて下さい」という、少し変わった感謝の言葉の言い回しは、それが本質的には自己満足だからこそなのではないかと思います。

人に認められることを考えずに、ひたすら自分のことを突き詰めるというのは、それはそれで難しいような気がします。

ですが、そうでもしないとロックンロールなんてやってられねえのではないでしょうか。

 

幸い、YouTubeApple Musicもあって、自分で音楽を掘る手段はいくらでもあります。

ただしその場合でも、必聴盤と言われてるもの、ロック史上とされるバンドが多すぎて聴くのが大変だという問題はやはり浮上してきます。正に「個性に疲れる」というやつですね…。

しかし、人に伝えたり誰かと話をしたりという目的がないのであれば、いくら時間をかけてもいくら偏っても自分が楽しければいいってわけで、まだ気楽にやれるのではないでしょうか。

 

 

 

 

ドレスコーズ「平凡」から考えたこと

 ドレスコーズ「平凡」を聴きました。

このアルバム、ヤバいです。

今まで音楽に心動かされることはあっても、物の考え方を引っくり返されたような感覚に陥ったのは初めてです。

いや、単純にめっちゃ格好いいアルバムです。世界観も妖しげでそそられますし、音楽的にも洗練されていて何度聴いても飽きない楽曲ばかりです。

しかし今回はあえて、この「平凡」を聴いて僕が考えた事について書いていきたいと思います。

なぜならこのアルバムはあくまで問題提起という位置付けであって、このアルバムを聴いて何を考えるか?というところがより重要だと思うからです。

作り手の方から問題提起として世に送り出されている以上、「ドレスコーズかっけぇ!ライブ行きてえ!!」で済ませてはいけないでしょう。ちゃんと考えたいと思います。

 

なんだか、書いているうちに「このアルバムを聴いたせいで昔のロックが素直に聴けなくなった!どうすりゃいいんだ!」という吐露に近いものになってしまいましたが…。

 

それでもよろしければ、お付き合い下さい。

 

なお、考えるにあたって以下のインタビューを参考にさせていただきました。

 

さて、考察にあたって、あくまで一つの切り口として、このアルバムで指摘され問題提起されている内容を

①個性への疲れ、そして放棄
②さよなら20世紀

という2つの点に分けて考えていきたいと思います。

 
①個性への疲れ、そして放棄

まず考えたいのが、このアルバムで繰り返し見られる「個性なんていらない!」という主張についてです。

改めて周りを見渡せば、現代は個性の押し売りが横行しているようにも感じられます。自分だけの服、自分だけの髪型、自分だけのアクセサリー。自分だけの写真、自分だけのプレイリスト、自分だけのゲームキャラクター。
昨今では個性的な人間であることへの批判が少なくなり、むしろ個性があることを尊重する声が上がるようになりました。

そして、今の時代に個性を主張したかったら簡単です。考えた事を書いて、Facebookなりtwitterなりに投稿すればいいですね。写真や絵でもあれば、もっと多くの衆目に留まるかもしれません。誰だってそうするし、それができます。また個性を育てるという事に関しても簡単で、好きな事についてひたすらググって関連記事を読みまくれば、周りの人が知らない知識が一通り揃ってしまいます。それをすこし飾り付ければ、こんな事に興味がありこんな事に詳しいです、これが私の個性ですと言えてしまいます。

インターネットは少なからず、個性の主張・育成を簡単にしてしまった。

このことがどんな状況を招いたかというと「個性から生み出されるアートや娯楽コンテンツが際限無く膨張を続け、その生産・消費のサイクルがあまりに加速しすぎてしまった」現状です。インタビュー内で「アートの洪水」と表現されているのは、おそらくこのようなことだと思います。
先述のように往々にして個性は尊重されますから、「個性あるひと」は自身の個性を主張します。そこで「個性あるひと」が大量発生し、自らの主張として各々がその個性を発揮したアートを生み出した結果、「アートの洪水」という事態になってしまった、ということではないでしょうか。
また、アートとまでは行かないまでも、SNSへの投稿も自己表現という点ではそれに準ずるコンテンツと捉えても差し支えないように思います。つまり「私はこんな事をしています」「こんな事を考えています」「こんな場所に行きます」「こんな写真を取ります」といったようなものですね。こういった自己表現も、しばしば娯楽コンテンツとして人を楽しませるものになるでしょう。何となくtwitterInstagramを開きたくなるのは、それが娯楽になりうるからです。

そう考えると、世の中いよいよ個性の自己主張だらけということになり、個性があるのが当たり前になってきます。そうすると、かえって飛び抜けた人というものが目立たなくなることも想像がつきます。

みんなちがって、みんな普通。

またこの際、大きな問題として考えられるのが「人間は個性に疲れる」ということです。
先述のような「アートの洪水」あるいは「コンテンツの洪水」という状況下では、受け手は常にほとんど毎日アートや投稿の表現、考え方、問いかけに曝され続けます。
個性的なものには枕言葉のように「独自の世界観」という言葉がよく使われますけれども、そもそも「独自の世界観」とは本来受け入れがたいものであるはずです。それが掃いて捨てるほど存在するようになれば、そんなものは到底受け入れ切れません。無理に受け入れれば疲れてしまうし、強烈な個性に触れ続ければ自分自身の存在のほうが不安定になってしまいます。

また作り手も作り手で、アーティストは受け手に忘れられないために延々と創作を続けなくてはならないし、ブロガーもツイッタラーも定期的な投稿をしないとすぐ忘れ去られてしまいます。

何かしらネタを見つけて、自分らしく仕上げなくてはならないことへの焦燥感。
また、仮にそれによって周囲から個性的な人間に見てもらえたとしても、結局それも「個性的な人間」というテンプレートの範疇にしかならない地獄。

こんな状況では、個性を求めること、個性を主張することへの疲労が溜まる一方なのは想像に難くないです。

そしてその疲労感の行き着く果てこそが、「エゴサーチ・アンド・デストロイ」なのではないでしょうか。

疲れるからこそ、自棄になって「もうmeなんていらない!!」となってしまう。個性を放棄して、平坦な思考の普通な人間になりたがる。

個性はテンプレート化し、無限大に増加していく。そして誰もがいずれ個性を受け入れることに疲れ、個性的な人間に見られることに疲れる。結果として個性を放棄して平凡を求める。

 

以上が個性への疲れ、そして放棄ということです。


②さよなら20世紀

次に、時代というものを軸にして考えてみましょう。
20世紀は個性を尊重する考えが生まれ、マイノリティの権利が叫ばれた時代だったとも言えるでしょう。大戦が終わって、人種差別、性差別、貧富格差やそういったものが社会的悪として認識され、皆が自由な生き方ができることを理想とする考えが広まっていきました。

これらのことの多くは未だ解決はしていないにしろ、一人ひとりの人権や自由がよりより声高に叫ばれた時代だというのは間違いないと思います。
これは言い換えれば、強力な個性ある者が評価された時代だったということであり、ひるがえって「『他の誰でもない自分』であることに価値を見出す時代」だったということにもなります。

 

そこからの決別。ということですね。

 

このアルバムは社会問題よりはカルチャー、アートの方に焦点を当てているように思うので、そちらについて考えてみたいと思います。ちなみに個人的には、「平凡」は20世紀のそういった価値観の否定ではなく、もうそこには居られないという未練を断ち切るための決別という風なニュアンスを感じます。
なぜならこのアルバム、音楽的なアプローチは明らかに20世紀のブラックミュージックを土台にしているからです。
平たくいうとファンキーですよね。
20世紀の音楽文化に造詣が深く、音楽を遡って聴き込んでいるのでなければ、こうはならないでしょう。その時代が好きで、20世紀の膨大なカルチャーを吸収しているであろう人達だからこそ、その時代の終わりもずっとシビアに感じ取っているのではないかと思います。

 

本題に戻りますが、なぜ20世紀と決別しなくてはならないというのでしょうか。

それは、単純に20世紀特有のカルチャーが終わってしまうからでしょう。
これを仮に「20世紀的カルチャーの物語」の終わり、とさせていただきます。
「20世紀的カルチャーの物語」というのは、「特異な個性を持った異端が出現し、それが大衆に認められ、やがて社会が変わっていく」という物語です。例えばビートルズが長い髪で頭を振り乱しシャウトするということをして、それに世界中の若者が熱狂していったような。

それが終わる。

なぜ終わってしまうかというと、考えられる理由のひとつは、①に挙げたように個性に対して疲れてしまった時代が近づいているということです。個性が氾濫した時代である21世紀に、例えばビートルズやデヴィッドボウイのような革新的な存在が現れて世界を大きく変えるというような物語は期待できない。受け手の方にそんなエネルギーがない。
それは20世紀の物語であって、もうピークを迎えて翳りが見えている、ということで…。
そしてもうひとつには、20世紀を彩ったアーティスト達がこれからどんどん死んでしまうという事実、これもあると思います。
実際インタビューの中で、アルバムの制作に関してはデヴィッドボウイとプリンスが亡くなった事に大きく影響を受けたとの旨の言葉がありました。
きっとこれからの十数年で、60年代ロックスターの大多数が旅立ってしまうでしょう。そういった状況はもうすぐそこに近づいてきています。
そんな中で、20世紀の価値観に居座り続けることはできない。無理にこだわろうとしても現実的ではない。なにより悲しくて仕方がない。
だからこそ、20世紀的なカルチャー観には固執していられない。

ということではないでしょうか。

20世紀(さよならフリーダム)という曲には、そのような郷愁が大いに込められているように感じます。

 

はい。

 

さて、以上①②のように考えたところで思うことがあります。それは、

「ロックンロールはどうなるんだ?」

ということです。

ロックンロールの歴史は、正に「20世紀的カルチャーの物語」そのものと言えると思います。なぜなら、ロックンロールは他ならぬマイノリティの音楽であり、個性を叫ぶ音楽だからです。

遡れば1950年代に若者の大人文化へのカウンターパンチとして出現し、70年代にはパンクロックとして社会批判の武器にもなってきました。
人と違う思想を持った者のための音楽、それがロックンロールだったはずです。

ところが現代において個性は抑えられるどころか氾濫しており、わざわざロックンロールで爆音鳴らして主張する必要がない。

むしろ、個性に対して疲れが見え始めている中で、そんな音楽は受け手としてもストレスでしかないかもしれません。それよりむしろ、一人ひとりの個性を覆い隠し、会場全体で一体となるダンスミュージックの方が相性がいいかもしれない。

ロックンロールは現状まだ廃れていないように思います。クロマニヨンズエレカシ斉藤和義奥田民生ウルフルズなどなど大御所はいまだバリバリ活躍中ですし、若手でもBawdiesやGLIM SPANKYなど昔のロックを土台にした音楽で売れてるバンドも沢山います。

ファンも実は老若男女、幅広い印象です。中学生だけどビートルズ好き!というのも意外と見かける話です。

しかし、むしろロックンロールは正にこれから(場合によってはこの「平凡」によって)、本当に時代遅れになっていくのかもしれません。

世代別に考えてみましょう。例えば40〜50代でロックンロールが好きな人というのは、IT革命前の20世紀が青春だったわけで、その延長線上としてロックンロールを味わうことができているのではないかと思います。つまり、ロックンロールで抑圧された個性を解放することによるカタルシス、また個性を認めてもらえることによるカタルシスを実感として持っているのだと思うのです。

だからこそ、今ロックンロールを聴いてもそれを思い出すことができる。

ところが、物心ついた時からSNSがある今の10〜20代では事情が違います。そもそも個性はあって当たり前、スマホを見れば無限に飛び込んでくるから、むしろ主張ばかりで疲れすら感じる。わざわざロックンロールで解放するまでもない。

ましてや「コンテンツの生産・消費サイクルの加速、そしてそれに対する疲れ」という現代特有の悩みに対して、ロックンロールは何の解決策にもならない。むしろ毒でさえある。

だからこそ今の10〜20代は、どう頑張っても上の世代の人達と同じようにロックンロールを経験することはできないのではないか?と思うわけです。

これは恐らく、IT革命前の社会を経験していない世代で、なんかロックンロールを好きになっちゃった人達が直面する問題なのではないかという気もします。

僕は23歳ですが、今まで同世代の人があんまり昔のロックを聴かないことについて、単にそれが時代遅れで知る機会がないから興味を持っていないだけだと思っていました。ちゃんと知ってさえもらえれば、価値のあるものなのだと。

でもそうじゃなくて、ロックンロールはもう根本的な概念から時代に合わない。時代が抱える悩みをもはや何も解決しないし、気休めにもならない。

だから流行らない、のだとしたら。

 

じゃあ、この21世紀におけるロックンロールって何なんだ?

 

このアルバムには僕にとっては、そのような問題提起に感じられました。

 

いずれにしても、ドレスコーズ「平凡」もう少し聴き込んでみて、またじっくり考え直してみようと思います。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

 

【ライブ】クロマニヨンズ@戸田市文化会館に行ってきた

 

こんばんは。

じわじわ暖かくなってきました。

先週、3月2日にクロマニヨンズのBIMBOROLLツアーのライブに行ってきました。場所は戸田市文化会館で、ツアー初のホール公演だったそうです。

ホールでのライブだとモッシュがないのが物足りない感じもしますが、僕は初めてクロマニヨンズを観たのがホールだったのでそれはそれで思い出深くもあります。

席は二階の左上スミの方でした。今年はチケットの予約がギリギリだったので、席が取れただけでも上出来です。

セトリは以下の通りでした。

 

おれ今日バイク

光線銃

マキシマム

デトマソパンテーラを見た

ハードロック

もれている

モーリー・モーリー

スピードとナイフ

ムーンベイビー

ナイアガラ

焼芋

誰がために

ピート

ペテン師ロック

エルビス(仮

突撃ロック

エイトビート

雷雨決行

ギリギリガガンガン

大体そう

 

アンコール

笹塚夜定食

オートバイと皮ジャンパーとカレー

ナンバーワン野郎!

 

はい。

いつも通り、最新アルバムの曲を全部やるクロマニヨンズ流石です。今回は曲順はちょっと変えてるんですね。光線銃かなり好きなので、始めからテンション上がってました。

個人的には、スピードとナイフが聴けてよかったです。クロマニヨンズのライブに行くのはもう5回目くらいになりますが、未だに聴けていないシングル曲のひとつでした。

 コビーにライトがパッと当たり、あのモータウンベースが聴こえてきて…という流れで、嬉しくてニヤニヤしてしまいました。ええ。

ヒロトはほんとにもーよく動くし、マーシーはステップも健在だし、ギターソロのピッキングハーモニクスがめっちゃキマってるし。

コビーとカツジも、ツアーの度に存在感を増しているような気がします。何より全員本当に楽しそう。

MCも色々ありました。ヒロトが客席に座るよう言ってきたと思ったら「では次に、『千の風になって』を…わたしのぉ〜〜〜〜」なんつって歌い始めるという…。笑った一方、なんかムッシュかまやつさんが亡くなったのを思い出してギクっとしちゃいましたね、、、。

あと、クロマニヨンズ観てみてぇぇって言ってたのも嬉しかったです。そりゃロックンロール好きなら好きでしょうね、クロマニヨンズ…。

今回のツアーの恒例(らしい)コールアンドレスポンスもありましたね。メンバー紹介です。最近は、ロックコンサートの定番をどんどん取り入れてきます。

マーシーーーーー!!好きな人の名前を呼ぶのは気持ちいいぜーーーっ!!」って、話には聞いていた堂々たるのろけを実際に聞くことができました。

そしてメンバー紹介はマーシーに続いてコビー、最後にカツジ…からの、そのままペテン師ロック!ここの流れが最高でした。

ここからのペテン師ロックエルビス→突撃ロック→エイトビート→雷雨決行→ギリギリガガンガンは、個人的に過去最強の並びでした。もうエルビスあたりから涙腺緩みっぱなしでずっと顔面ぐしゃぐしゃでした。ずるいよ。

僕はクロマニヨンズを中学高校の頃からずっと聴き続けていて、「ロックンロール」という単語に興味を持ったのもヒロトマーシーがキッカケでした。

高三の苦しい大学受験の頃にACE ROCKERが出て、雷雨決行を聴いて、ナンバーワン野郎を聴いて。 そんで大学に上がって、ロックコンサートなんか行った事もないのに初めてクロマニヨンズのライブに行って、一曲目が突撃ロックで。

ライブでそういう昔の曲が演奏されると、10代で抱えてた悩みなんかと一緒に、その頃そのままの感動がいっぺんにワーッと押し寄せてくるもんで、こればっかりはもうどうしようもないです。なんで泣いてるのか自分でもわからん。

ここ最近にしたって、いよいよロックスターが寿命でこの世を去るような時代になってきて、仕方ないけどモヤモヤしてたところにエルビスが突き刺さってきました。そうやって、現在進行形で心を震わされ続けています。

ということで、今回も大満足のライブでした。何度でも言いますが、一番好きなバンドが毎年アルバム出してツアーやってくれてるって最高です。

 

一回でも多く行きたいものです、ほんとに。

フレディ・アンド・ザ・ドリーマーズを聴く

こんばんは。

花粉がそろそろきそうな感じですね。

 

僕は「60年代ブリティッシュ・ビート」という本を持っています。その名の通り60年代のビートブーム時代と呼ばれる時期のバンドを写真つきで紹介している本でして、これがまーよくまとまっていて面白いです。

聴くものに困った時は、何はなくともコイツを開いて探してみれば間違いない。そんな宝の地図のような本です。

今回はこの本から、フレディ・アンド・ザ・ドリーマーズというバンドを取り上げてみようと思います。

サムネを見ると眼鏡の白人、はてバディ・ホリーかな?と思って開くと、明らかに挙動がヤバい。な、なんだこれ…。

このバンドはマンチェスター出身で、60年代半ばに活躍したブリティッシュ・インベイジョンど真ん中のバンドのようです。つまりイギリスから出てきてアメリカでも人気が出たという典型で、このI'm Telling You Know(邦題:好きなんだ)は当時アメリカのチャートで一位を取ったシングル曲ですね。

イギリスのバンドってどことなく暗めでしっとりしたイメージがあるのですが、フレディ・アンド・ザ・ドリーマーズはとにかく陽気ですね。特にフロントマンのフレディ・ギャリティの動きは、アメリカンコメディやディズニーのアニメキャラクターのようです。これもイギリスなのかと。

なんだろう、この背景…。

最後の方に全員集合して、他の出演者?が微妙に恥ずかしそうに踊ってるのが最高です。

よく聴いてみると、コミックバンドかと思いきや曲はとてもポップで歌やコーラスも上手です。音的には優等生っぽいのがなんとも面白いですね。これをパンクにしたら50回転ズみたいになりそうです。

ストーンズビートルズがある意味でアイドルとして売り出していた時期に、こういったコミカルなのステージを売りにしていたバンドもいたんだなーというのが新鮮です。

このバンドは解散が1966年と結構早くて、フロントマンのフレディはそれ以降子供向けのTV番組やキャバレー回りに活動を移したそうです。

…や、やっぱりコメディアンなのでは。

30年後の姿もyoutubeにありました。歳はとっているけど、なんも変わってないっすね。

なぜか冒頭のヒャハハハハーで目頭が熱くなります。ぶれない格好良さ。

50回転ズも歳とったらこんな感じなのかな…。

今週はいよいよクロマニヨンズのライブです。楽しみ。時間に間に合うといいな…。

 

 

テレキャスターとオッサンと女子

 

こんばんは。

 マーシーが誕生日だそうで、おめでとうございます。歳を重ねて衰えるどころか益々カッコよくなっていくの、本当に凄いと思います。ずっと追いかけてます。

来週ライブ行きます。やー楽しみ。

 

さて、今回も前回に引き続き、テレキャスターについての話です。

果たしてテレキャスターはおっさんなのか、それとも女子なのかについて考えてみたいと思います。わーい。

最近(といっても数年前かも)、テレキャスターを持った女子、「テレキャス女子」というものが取り上げられていると思います。

チャットモンチーからSHISHAMOまで、たしかにガールズバンドのギターボーカルのテレキャス率の高さには目を見張ります。また、何もプロでなくても、高校や大学の軽音部のギター女子のテレキャス率も相当高い気がします。いつだったか、能年玲奈がステッカーだらけのテレキャスを抱えた姿で雑誌の表紙を飾ってましたね。

極端なことを言えば、テレキャスターのステレオタイプの1つに「ガールズバンドの子が持ってる可愛いギター」というのもあると思います。

 ただ面白いのは、これがもう少し上の世代になると意見が全然違ってくることです。

曰く、テレキャスはオッさんくさい。

可愛いどころかテレキャスは渋い、無骨なギターだという意見ですね。完全に真逆です。

この認識の差は何なのでしょうか。

今回はこれについて考えてみます。

 

まず、テレキャスの女子っぽいところについて、もうちょっと掘り下げてみましょう。

むかし部活の先輩に、テレキャスターを使っている女子はほとんどチャットモンチーに憧れているのだと聞きました。
今だったらSHISHAMOなんですかね…。

女子のテレキャス率が高い理由として、まず1つは憧れという要素があると思います。

要は、えっちゃんが使ってるから使う。

シンプルながら間違いない理由です。

バンド全体からするとガールズバンドの占める数ってまだそこまで多くはないので、必然的に憧れの対象になるようなギタリストとなると数が絞られてくるというのもあると思います。

また、憧れということの他に、テレキャス自体がエレキギターの中でも女子に相性がいいモデルなのかもしれません。
というのも、どうも周りを見てると、女の人は結構ずっと一本のギターを使い込んでいく印象があります。それこそ田渕ひさ子とかもそうですし。
この一本を使い込むという点において、テレキャスターはかなり用途に合ったギターだと思います。比較的軽いし、丈夫だし、一本でなんでもできるし。

また、カラーリングがわりと明るくて綺麗というのも理由かもしれません。ホワイトブロンドやキャンディアップルレッドなんかは、そういう目で見れば女の子っぽいカラーリングです。特にキャンディアップルレッド、赤いテレキャスは人気がある印象です。名前からしておいしそうですし、女子力高そう。

 

さて。一方、テレキャスがオッさん御用達だという意見について考えましょう。

ちなみに僕はこれ、めっちゃ良く分かります。

なぜかと言えば、テレキャスは名だたる歴代ロックスター達に愛されてきた経緯があるからですね。

そもそもテレキャスターは歴史の古いギターでして、フェンダー社の作った最初のソリッドギターです。実はストラトレスポールやSGなど世のほとんどのエレキギターよりも先輩にあたります。それもあって、60〜70年代ロックスターにも使用者は多いです。

まず何と言ってもキース・リチャーズ、この方はオープンGで五弦にしたテレキャスがトレードマークですね。木目がナチュラルっぽいので、これは多分マルコムでしょうか。

 ブルース・スプリングスティーンのトレードマークもテレキャスです。Born To Runのジャケットで彼が抱えるテレキャスインパクト大です。

また、エルヴィス・プレスリーのバックでギターを弾いていたジェームズバートンもテレキャスターですね。後は、先週も触れたジミー・ペイジウィルコ・ジョンソン、そしてパンク勢としてはジョー・ストラマーも外せません。

他にもミック・グリーン、オルガ、ダニー・ガットン、ジョージ・ハリスンジェフ・ベック、などなど…僕が思いつく範囲でさえ、挙げればキリがありません。

つまり、この辺の時代のギタリスト達に憧れを持っていても、テレキャスに引き寄せられるというわけです。この場合はバタースコッチブロンドやサンバーストなどの色を選ぶことになるでしょう。しぶい。

当然、日本でもこういったロックスター達の憧れからかテレキャスを手に取った人達もいて、チャボやマーシーアベフトシ、ダニー、くるり岸田繁斉藤和義、その他にも大勢いそうです。あと個人的には、いま50〜60代でバンダナ着けてテレキャスを抱えていた写真が残っている人はみなキースリチャーズ意識だと思います。はい。

また色に関して、先程赤いギターは色が可愛いから女子っぽいと書きましたが、

ブルースの巨人にしてストーンズの憧れの存在、マディ・ウォーターズが赤いテレキャスを使っています。昔のキャンディアップルレッドってなんか色が違いますね。日焼けした感じというか…。

また向井秀徳のメイン機の1つも実は赤色です。

赤いテレキャスというとこういうイメージもあります。こうなると、先程まで女子力を発揮していたりんご色が、鈍く輝く赤銅色に見えてくるから不思議です。

 

はい。 

SHISHAMOマディ・ウォーターズを同記事で並べるとっ散らかり加減ったらないですね。

時代を超えて様々なギタリストに使われてるのに、その使われ方が全然違うところが面白いです。それだけ幅のきくギターなのでしょう。

そもそも発売から半世紀近く経つのに、未だに形が変わらないのも凄い話です。 

一本欲しい…けど、僕はレスポール派です。

 テレキャスに関しては他の人に使って欲しい、そしてたまに貸してほしい、みたいな、こう。

そのあたり複雑な感情を抱えています。