ロックンロールで一夜漬け

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音楽に踏み込む探検日記。毎週月曜更新

ドレスコーズ「平凡」から考えたこと

 ドレスコーズ「平凡」を聴きました。

このアルバム、ヤバいです。

今まで音楽に心動かされることはあっても、物の考え方を引っくり返されたような感覚に陥ったのは初めてです。

いや、単純にめっちゃ格好いいアルバムです。世界観も妖しげでそそられますし、音楽的にも洗練されていて何度聴いても飽きない楽曲ばかりです。

しかし今回はあえて、この「平凡」を聴いて僕が考えた事について書いていきたいと思います。

なぜならこのアルバムはあくまで問題提起という位置付けであって、このアルバムを聴いて何を考えるか?というところがより重要だと思うからです。

作り手の方から問題提起として世に送り出されている以上、「ドレスコーズかっけぇ!ライブ行きてえ!!」で済ませてはいけないでしょう。ちゃんと考えたいと思います。

 

なんだか、書いているうちに「このアルバムを聴いたせいで昔のロックが素直に聴けなくなった!どうすりゃいいんだ!」という吐露に近いものになってしまいましたが…。

 

それでもよろしければ、お付き合い下さい。

 

なお、考えるにあたって以下のインタビューを参考にさせていただきました。

 

さて、考察にあたって、あくまで一つの切り口として、このアルバムで指摘され問題提起されている内容を

①個性への疲れ、そして放棄
②さよなら20世紀

という2つの点に分けて考えていきたいと思います。

 
①個性への疲れ、そして放棄

まず考えたいのが、このアルバムで繰り返し見られる「個性なんていらない!」という主張についてです。

改めて周りを見渡せば、現代は個性の押し売りが横行しているようにも感じられます。自分だけの服、自分だけの髪型、自分だけのアクセサリー。自分だけの写真、自分だけのプレイリスト、自分だけのゲームキャラクター。
昨今では個性的な人間であることへの批判が少なくなり、むしろ個性があることを尊重する声が上がるようになりました。

そして、今の時代に個性を主張したかったら簡単です。考えた事を書いて、Facebookなりtwitterなりに投稿すればいいですね。写真や絵でもあれば、もっと多くの衆目に留まるかもしれません。誰だってそうするし、それができます。また個性を育てるという事に関しても簡単で、好きな事についてひたすらググって関連記事を読みまくれば、周りの人が知らない知識が一通り揃ってしまいます。それをすこし飾り付ければ、こんな事に興味がありこんな事に詳しいです、これが私の個性ですと言えてしまいます。

インターネットは少なからず、個性の主張・育成を簡単にしてしまった。

このことがどんな状況を招いたかというと「個性から生み出されるアートや娯楽コンテンツが際限無く膨張を続け、その生産・消費のサイクルがあまりに加速しすぎてしまった」現状です。インタビュー内で「アートの洪水」と表現されているのは、おそらくこのようなことだと思います。
先述のように往々にして個性は尊重されますから、「個性あるひと」は自身の個性を主張します。そこで「個性あるひと」が大量発生し、自らの主張として各々がその個性を発揮したアートを生み出した結果、「アートの洪水」という事態になってしまった、ということではないでしょうか。
また、アートとまでは行かないまでも、SNSへの投稿も自己表現という点ではそれに準ずるコンテンツと捉えても差し支えないように思います。つまり「私はこんな事をしています」「こんな事を考えています」「こんな場所に行きます」「こんな写真を取ります」といったようなものですね。こういった自己表現も、しばしば娯楽コンテンツとして人を楽しませるものになるでしょう。何となくtwitterInstagramを開きたくなるのは、それが娯楽になりうるからです。

そう考えると、世の中いよいよ個性の自己主張だらけということになり、個性があるのが当たり前になってきます。そうすると、かえって飛び抜けた人というものが目立たなくなることも想像がつきます。

みんなちがって、みんな普通。

またこの際、大きな問題として考えられるのが「人間は個性に疲れる」ということです。
先述のような「アートの洪水」あるいは「コンテンツの洪水」という状況下では、受け手は常にほとんど毎日アートや投稿の表現、考え方、問いかけに曝され続けます。
個性的なものには枕言葉のように「独自の世界観」という言葉がよく使われますけれども、そもそも「独自の世界観」とは本来受け入れがたいものであるはずです。それが掃いて捨てるほど存在するようになれば、そんなものは到底受け入れ切れません。無理に受け入れれば疲れてしまうし、強烈な個性に触れ続ければ自分自身の存在のほうが不安定になってしまいます。

また作り手も作り手で、アーティストは受け手に忘れられないために延々と創作を続けなくてはならないし、ブロガーもツイッタラーも定期的な投稿をしないとすぐ忘れ去られてしまいます。

何かしらネタを見つけて、自分らしく仕上げなくてはならないことへの焦燥感。
また、仮にそれによって周囲から個性的な人間に見てもらえたとしても、結局それも「個性的な人間」というテンプレートの範疇にしかならない地獄。

こんな状況では、個性を求めること、個性を主張することへの疲労が溜まる一方なのは想像に難くないです。

そしてその疲労感の行き着く果てこそが、「エゴサーチ・アンド・デストロイ」なのではないでしょうか。

疲れるからこそ、自棄になって「もうmeなんていらない!!」となってしまう。個性を放棄して、平坦な思考の普通な人間になりたがる。

個性はテンプレート化し、無限大に増加していく。そして誰もがいずれ個性を受け入れることに疲れ、個性的な人間に見られることに疲れる。結果として個性を放棄して平凡を求める。

 

以上が個性への疲れ、そして放棄ということです。


②さよなら20世紀

次に、時代というものを軸にして考えてみましょう。
20世紀は個性を尊重する考えが生まれ、マイノリティの権利が叫ばれた時代だったとも言えるでしょう。大戦が終わって、人種差別、性差別、貧富格差やそういったものが社会的悪として認識され、皆が自由な生き方ができることを理想とする考えが広まっていきました。

これらのことの多くは未だ解決はしていないにしろ、一人ひとりの人権や自由がよりより声高に叫ばれた時代だというのは間違いないと思います。
これは言い換えれば、強力な個性ある者が評価された時代だったということであり、ひるがえって「『他の誰でもない自分』であることに価値を見出す時代」だったということにもなります。

 

そこからの決別。ということですね。

 

このアルバムは社会問題よりはカルチャー、アートの方に焦点を当てているように思うので、そちらについて考えてみたいと思います。ちなみに個人的には、「平凡」は20世紀のそういった価値観の否定ではなく、もうそこには居られないという未練を断ち切るための決別という風なニュアンスを感じます。
なぜならこのアルバム、音楽的なアプローチは明らかに20世紀のブラックミュージックを土台にしているからです。
平たくいうとファンキーですよね。
20世紀の音楽文化に造詣が深く、音楽を遡って聴き込んでいるのでなければ、こうはならないでしょう。その時代が好きで、20世紀の膨大なカルチャーを吸収しているであろう人達だからこそ、その時代の終わりもずっとシビアに感じ取っているのではないかと思います。

 

本題に戻りますが、なぜ20世紀と決別しなくてはならないというのでしょうか。

それは、単純に20世紀特有のカルチャーが終わってしまうからでしょう。
これを仮に「20世紀的カルチャーの物語」の終わり、とさせていただきます。
「20世紀的カルチャーの物語」というのは、「特異な個性を持った異端が出現し、それが大衆に認められ、やがて社会が変わっていく」という物語です。例えばビートルズが長い髪で頭を振り乱しシャウトするということをして、それに世界中の若者が熱狂していったような。

それが終わる。

なぜ終わってしまうかというと、考えられる理由のひとつは、①に挙げたように個性に対して疲れてしまった時代が近づいているということです。個性が氾濫した時代である21世紀に、例えばビートルズやデヴィッドボウイのような革新的な存在が現れて世界を大きく変えるというような物語は期待できない。受け手の方にそんなエネルギーがない。
それは20世紀の物語であって、もうピークを迎えて翳りが見えている、ということで…。
そしてもうひとつには、20世紀を彩ったアーティスト達がこれからどんどん死んでしまうという事実、これもあると思います。
実際インタビューの中で、アルバムの制作に関してはデヴィッドボウイとプリンスが亡くなった事に大きく影響を受けたとの旨の言葉がありました。
きっとこれからの十数年で、60年代ロックスターの大多数が旅立ってしまうでしょう。そういった状況はもうすぐそこに近づいてきています。
そんな中で、20世紀の価値観に居座り続けることはできない。無理にこだわろうとしても現実的ではない。なにより悲しくて仕方がない。
だからこそ、20世紀的なカルチャー観には固執していられない。

ということではないでしょうか。

20世紀(さよならフリーダム)という曲には、そのような郷愁が大いに込められているように感じます。

 

はい。

 

さて、以上①②のように考えたところで思うことがあります。それは、

「ロックンロールはどうなるんだ?」

ということです。

ロックンロールの歴史は、正に「20世紀的カルチャーの物語」そのものと言えると思います。なぜなら、ロックンロールは他ならぬマイノリティの音楽であり、個性を叫ぶ音楽だからです。

遡れば1950年代に若者の大人文化へのカウンターパンチとして出現し、70年代にはパンクロックとして社会批判の武器にもなってきました。
人と違う思想を持った者のための音楽、それがロックンロールだったはずです。

ところが現代において個性は抑えられるどころか氾濫しており、わざわざロックンロールで爆音鳴らして主張する必要がない。

むしろ、個性に対して疲れが見え始めている中で、そんな音楽は受け手としてもストレスでしかないかもしれません。それよりむしろ、一人ひとりの個性を覆い隠し、会場全体で一体となるダンスミュージックの方が相性がいいかもしれない。

ロックンロールは現状まだ廃れていないように思います。クロマニヨンズエレカシ斉藤和義奥田民生ウルフルズなどなど大御所はいまだバリバリ活躍中ですし、若手でもBawdiesやGLIM SPANKYなど昔のロックを土台にした音楽で売れてるバンドも沢山います。

ファンも実は老若男女、幅広い印象です。中学生だけどビートルズ好き!というのも意外と見かける話です。

しかし、むしろロックンロールは正にこれから(場合によってはこの「平凡」によって)、本当に時代遅れになっていくのかもしれません。

世代別に考えてみましょう。例えば40〜50代でロックンロールが好きな人というのは、IT革命前の20世紀が青春だったわけで、その延長線上としてロックンロールを味わうことができているのではないかと思います。つまり、ロックンロールで抑圧された個性を解放することによるカタルシス、また個性を認めてもらえることによるカタルシスを実感として持っているのだと思うのです。

だからこそ、今ロックンロールを聴いてもそれを思い出すことができる。

ところが、物心ついた時からSNSがある今の10〜20代では事情が違います。そもそも個性はあって当たり前、スマホを見れば無限に飛び込んでくるから、むしろ主張ばかりで疲れすら感じる。わざわざロックンロールで解放するまでもない。

ましてや「コンテンツの生産・消費サイクルの加速、そしてそれに対する疲れ」という現代特有の悩みに対して、ロックンロールは何の解決策にもならない。むしろ毒でさえある。

だからこそ今の10〜20代は、どう頑張っても上の世代の人達と同じようにロックンロールを経験することはできないのではないか?と思うわけです。

これは恐らく、IT革命前の社会を経験していない世代で、なんかロックンロールを好きになっちゃった人達が直面する問題なのではないかという気もします。

僕は23歳ですが、今まで同世代の人があんまり昔のロックを聴かないことについて、単にそれが時代遅れで知る機会がないから興味を持っていないだけだと思っていました。ちゃんと知ってさえもらえれば、価値のあるものなのだと。

でもそうじゃなくて、ロックンロールはもう根本的な概念から時代に合わない。時代が抱える悩みをもはや何も解決しないし、気休めにもならない。

だから流行らない、のだとしたら。

 

じゃあ、この21世紀におけるロックンロールって何なんだ?

 

このアルバムには僕にとっては、そのような問題提起に感じられました。

 

いずれにしても、ドレスコーズ「平凡」もう少し聴き込んでみて、またじっくり考え直してみようと思います。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。