ロックンロールと21世紀
こんばんは。
チャックベリーが亡くなりましたね…。
御歳90歳ということで大往生ではありますが、それでもやっぱり寂しいです。
バディホリーやエディコクランなど、同世代に活躍したロックミュージシャンの多くが若くして世を去っている中、チャックベリーのように長生きして沢山の作品を遺してくれたのはとても偉大なことのように思います。
ご冥福をお祈り致します。
しかし、この訃報もあって尚更、ここ最近は改めて先週のテーマについてばかり考えてしまいます。
つまり
「ロックンロールはここ数年でいよいよ本当に時代遅れになったんじゃないか?現代の人々の悩みを何も反映しない音楽になったんじゃないか?」
ということです。
古臭いって言われてもロックンロールが好きだぜ〜と言うことができたのは過去の話で、これからの時代に人々が直面する問題に対しては、ロックンロールは何の解決にも気休めにもならないどころか、問題を捉えることさえできないのではないか?ということです。
個性が嫌われる(権力者に個性が抑えつけられるということではなく、一人一人が個性というものに疲れてうんざりしてしまう)時代において、個性を主張する音楽であるロックンロールって何にもならないんじゃないか・・・、と。
チャックベリーもビートルズもストーンズも、もっと言えばピストルズも清志郎もブルーハーツも、見方によっては20世紀の「個性を認めろ、マイノリティを認めろ」という主張に倣うという意味で、同じ流れの上に置くことができると思います。それは人と違うものが好きな自分たちでも楽しくやってやるぜー、という主張でもあると思います。
でもその流れがあった時代と現代には線が引かれてしまっている。あるいは、そこに線を引こうとしているのがドレスコーズの「平凡」なのだと思います。あのアルバムは、向こうとこっちは別の時代ですよ、こっちから向こうには渡れませんよ、と言っているように感じられます。
それの何が問題かって、要するに今の若者はいくら憧れてもチャックベリーにはなれないんじゃないかってことです。清志郎にもなれないし、ブルーハーツにもなれない。
なぜかって、抱えている問題の性質が違うから。悩みが違う。ただ時代が違うというだけじゃなくて、根本的に抱える鬱屈の種類が違う。 スリーコードでリズムを刻むことはできても、それは形をなぞっただけであって、そこに込めるものが違ってくる。
当時からずっとロックを続けている人はいいと思うのです。実際、今の40〜50代の人達が若かった80年代は、自らの個性をロックで叫ぶという事に意味のある時代だったはずで、その中を生きてきた人達だから。
その感覚を持っているから、その続きとして同じ感覚でロックンロールをやることができるんじゃないかと思います。
しかし現代、特に物心ついた時にはネットが普及していた10〜20代は、根本的に抱える悩みが違うように思います。だから本来ロックンロールに込めるべきものがない。それは悪いこととかじゃなくて、時代と共に人々が抱えるテーマが違うという話です。
規範に従うだけでは、褒められるどころかつまらない人間だと思われる。
何か人と違う所がないと恥ずかしい、自分だけの何かがないと居心地が悪い。
スマホを見れば無数の人々の無数の表現が溢れていて、いちいちまともに受け取っていたら疲れてしまう。逆に何かを発信しようとしても、ネットを通して人目につかせること自体は簡単でも、注目を引き続けるには延々と何かを発信を続けなくてはならない。
個性を受け入れるのも、主張するのも、しんどい。
そんな悩みはチャックベリーの時代にも、ビートルズの時代にも、清志郎の時代にもブルーハーツの時代にもなかったのではないでしょうか。
その大きな悩みを脇に置いて、ロックンロールをやってもダメなんじゃないか、と。
こういった次第なのです。
じゃあ、これからの時代にロックンロールが好きな人はどうしていったらいいのか。
そこを考えないといけません。
①違うことをやる
これはもっともな話で、ロックンロールが担ってきた役割が違うものに移ったのだとしたら、違うことをやればいいということです。それはラップかもしれないし、EDMかもしれない。また、ここでファンクを選択したのが今のドレスコーズなんじゃないかとも思います。
でもロックンロールが好きなのに違うことをやらなきゃいけないというのは、なんだか寂しくもあります。
②旧態依然を続ける
時代が変わったなんて言っても、戦争も差別もなくなってない、マイノリティはまだまだ弱い。だから世界はロックンロールを求めている!といって、頑固に昔のロックを続けることもできます。ただ、先述の通りそれが果たして昔のロックスターに近づくことになるのかは、なんだか疑問です。個人的には、様式美のために仮想敵を設定しているような、変な違和感があります。
③徹底的に引きこもる
引きこもるといっても、概念的な話です。
個人的には、これが今思いつく中では一番しっくりきます。
社会も他人も時代も関係なく、ただ自分がロックンロール好きでいられればOK。
今まで書いてきたことは、結局ロックンロールを「自分vs社会」「自分vs他者」における武器として扱ううえで起きてくる問題です。だったら、もうそんな戦いをしなければいい。
言うなれば「自分vsロックンロール」、自分がロックンロールに心動かされているか、それだけが大事だと割り切ってしまうということです。
誤解を恐れずに言うなら、これをやってるのがクロマニヨンズなんじゃないかと思います。あの人達はほんとにロックンロールが好きで仕方なくて、それをやってるだけって感じがします。ロックンロールは凄いものだから、人々に広めたい!みんなに聴いてほしい!…という思いはなさそうです。恐らくクロマニヨンズにとって、ロックンロールは世間に何かを訴えかける手段ではないんじゃないかと思います。あくまで自分達が楽しむためのものなんだと思います。
エルビス(仮)という曲に、価値のわからない埃をかぶっている宝物、という詞があります。ここでいう宝物をロックンロールのレコードの事だとするなら、ロックンロールは多くの人にとって価値が見出せないようなものであり、またそれでいいんだという思いが見てとれます。
そういう、ある意味で自分勝手な自己満足だからこそ、それを聴く人達には飛びっきりの感謝をしてくれる。ヒロトがライブの度に言う「ありがとう楽しかったよ、またやらせて下さい」という、少し変わった感謝の言葉の言い回しは、それが本質的には自己満足だからこそなのではないかと思います。
人に認められることを考えずに、ひたすら自分のことを突き詰めるというのは、それはそれで難しいような気がします。
ですが、そうでもしないとロックンロールなんてやってられねえのではないでしょうか。
幸い、YouTubeやApple Musicもあって、自分で音楽を掘る手段はいくらでもあります。
ただしその場合でも、必聴盤と言われてるもの、ロック史上とされるバンドが多すぎて聴くのが大変だという問題はやはり浮上してきます。正に「個性に疲れる」というやつですね…。
しかし、人に伝えたり誰かと話をしたりという目的がないのであれば、いくら時間をかけてもいくら偏っても自分が楽しければいいってわけで、まだ気楽にやれるのではないでしょうか。