ドレスコーズ 「どろぼう」考察
こんばんは。
今月半ばに、ドレスコーズの映像作品がまた出ましたね。"dresscodes plays the dresscodes"どろぼう、僕はグラン・ブーケ盤を買いました。1番装丁が凝ってるやつですね。
今回はライブでありながら、演劇やミュージカルの要素も取り入れたステージだったということで、また昨年の平凡とは違った意味でエキセントリックな仕上がりになっています。
僕はこの作品、一度観てすごく惹きつけられ、二度観て鳥肌が立ちました。
ここでは二度目に観た際に気がついたことの話をさせて下さい。個人の妄想で合ってるかどうか分からないのですが、なんとなくどこかに書かずにはいられない心境なのです。
(ネタバレを多分に含むので、気にされる方はご注意ください。)
いつかの付録ラジオかインタビューだったと思います、この作品について志磨さんが「画面のアスペクト比が変わる瞬間に注目を」という風におっしゃっていました。
アスペクト比が変わる、というのは映像の上下の黒い幕がなくなる瞬間のことですね。
この点に注目して見直すと、とんでもない大仕掛けがあった事に気付かされたのです。
黒い幕がなくなる瞬間。
それはマックがメリー・ルウに別れを告げ、「あんはっぴいえんど」が始まる瞬間でした。
そしてこの黒い幕、間を置いて再び現れます。それが、「欲望」のラスト、マックが銃弾に倒れるその瞬間。そして本編ラストの「ダンデライオン」が歌い上げられるまで、この幕は現れたままです。
この黒い幕。
これは、演劇でいうところの「第4の壁」を表したものなのではないでしょうか。
「第4の壁」とは、観客とステージの間の壁、つまりフィクションとノンフィクションの壁のことでした。
この壁をあえて打ち破り「この劇を観ているお前はどう考える⁉︎お前は何者なんだ⁉︎」と問いかけることこそが、ブレヒトの大きな発明の一つである…の、だそうですね。人聞きですが(出典:山田玲司のヤングサンデー)。
今回の黒い幕の仕組みは、そのブレヒトの発明を、衝撃を再現しようとしたものなのではないでしょうか。
「あん・はっぴいえんど」の歌の中では、志磨さんの動きとカメラワークにそれまでとは大きな違いが見てとれます。
まずステージ上の動きに関してですが、この曲から明らかに「観客を意識した動き」になっています。それまでは観客をまるで無視していたのが、「あん・はっぴいえんど」に入った途端に観客に視線を送り、観客席から飛んできたバラも受け取るようになります。
「バラを受け取る」という行為が特にミソで、これはつまりステージと観客席との間に垣根がなくなったことを意味します。
また、カメラワークも大きく変わります。というのも、この曲から明らかに観客をしっかりと映すようになります。それまでは観客の存在も忘れてしまうくらいにステージの上ばかりが映っていたのに、観客の顔までしっかりと観てとれるようになるのです。
(この「途中から観客の姿を映す」という仕掛けは、トーキング・ヘッズの「ストップ・メイキング・センス」にもあったものですね)
この瞬間から、いわば「ステージ上のロックスターと観客」という関係が観てとれるようになるわけです。この関係の中には、僕らはみんな同じなんだ、ここにいる人達はみな一緒なんだ、というロックショーお決まりの図式が成り立ちます。
それを「あん・はっぴいえんど」「スーパー、スーパー、サッド」「欲望」という、ファンからも人気のある曲で十二分にアピールした上で、
ステージ上のロックスターを殺す。
殺した瞬間から、黒い幕がまた復活します。
この瞬間から、再びステージ上は隔絶されたフィクションの世界となるわけです。
この表現の何がヤバいかというと、つまり第4の壁を一度取っ払った上で、さらにロックの力でステージと観客を1つにして、その上で突然それをぶっちぎって一瞬のうちに再び分厚い壁を作り出してしまう…ということで。
極端な話、「ステージ上のロックスターを殺す」というのは、観客を皆殺しにするのと同じことなわけです。ありえないんですね。
だからこそ、これはお芝居なんですよ、ということが嫌という程突然強調されるわけです。
それによって、自分が殺されたような衝撃とともに、より第4の壁の存在がエゲツなく提示されると…。
「ダンデライオン」を歌うステージ上の男、いや女の姿は、最早ずっと遠い世界の住人のように思えます。その人はついさっきまで、皆と共にあったロックスターであったのに。
第4の壁を使い分け、遊び、突きつける。
それを、ロックと演劇という2つの概念を行き来することで、よりエゲツない形で提示する仕組みになっているのではないでしょうか、この映像作品は。
正直、1920年代のドイツの演劇に現代日本の僕達が共感するのは難しいことです。
しかし、ブレヒトが当時の世間に与えた衝撃はこういうものであったのかもしれない、と。この作品からは、そんな想像すら掻き立てられました。
「ドレスコーズ やべえ!」だけでなく、
「演劇やべえ!ブレヒトやべえんじゃね!?」
というところまで思わされる、そんな素晴らしい作品でした。